見出し画像

「kentaro03xxxx」

あれは飲み会の前だったか、それともちょっと買いたいものがあって出かけたのか。仕事がとにかく忙しく、休日の、やっと空いた時間に渋谷の街をフラフラと歩いていたときのことだった。

「夜の仕事とかって興味ないですか」とキャッチの人に話しかけられた。

109の近くにあるみずほ銀行の前はいつもキャッチやナンパしている人がいて、声をかけられるなんてよくあることだ。いつもは目を合わせずに黙って横を通り過ぎ、その先の信号待ちで足止めされたならばケータイを見たりしながら聞こえないふりをしてやり過ごす。

でもその日は少しだけ違った。

「なんの仕事してるんですか」と聞かれた質問には答えず、目の前の信号が青になるのをいつものように黙って待った。キャッチのお兄さんは慣れたようすで少しもへこたれることなく、「お姉さん、本当に今の仕事に満足してます~?」と明るい口調で話を続けた。

今の仕事に満足しているか。

話の流れとして、その質問は少しもおかしくはない。だけども、私はものすごく動揺した。

本当に今の仕事に満足しているのか。

その迷いが相手にも伝わったのかもしれない。「体験だけ!やってみて違ったら辞めてもらって大丈夫なんで、この後とかどっすか」と今度は強い口調でまっすぐにこちらを見てきた。思わず「興味ないので」と同じくらい力強い声で断ると、「じゃあ、やってみたいと思ったときに連絡ください」と1枚の紙切れを私の手の中にねじ込んできた。

信号が変わり、そのまま私は歩き出した。人混みでキャッチの姿はすぐに見えなくなり、手元には連絡先が書かれた紙だけが残された。

私はそれを捨てなかった。

LINEのIDが書かれたその紙を、定期入れのポケットにそのまま押し込んだ。

****************

最近定期入れを新調しようと思い、中身を整理したらLINEのIDが書かれた1枚の紙が出てきた。

「kentaroって、一体誰の連絡先だろう…」、とそのIDに含まれていた名前を見ながら考えたが、すぐには思い出せなかった。

その紙をゴミ箱に捨て、しばらく経ってからようやくそのときのことを思い出した。

常に仕事に追われていたあのころ。とにかくしんどかった。睡眠時間も満足に確保できなかったし、よく詰められていて精神的にもさすがにキツかった。仕事をしていないときでも仕事のことが頭に浮かび、1秒たりとも気持ちが休まる瞬間はなかった。

だけど、それを吐き出せる相手も逃げる場所もなかった。誰かに弱音を吐く気力も時間もなかったし、昔から憧れていた仕事だった手前、逃げることなど到底できずにしがみつくほかなかった。ただ目の前にある仕事をやっていくしか選択肢がなかった。

仕事に満足しているなんてとても思えなかった。「とにかく結果を出さなければ」と眠気覚ましにエナジードリンクを毎日流し込みながら、心身ともにギリギリだった。

そんなときにキャッチの人から言われた言葉は、あの連絡先は、紛れもなく私に別の人生を想起させた。

全てを投げ捨てて道玄坂あたりのキャバクラでイチから働き始める自分を。きっと理不尽なことを言われたりして傷ついてすぐにいやになるだろう。それでもヘラヘラと作り笑いを浮かべて話を聞きながらお酌をする自分の姿を。

それは楽しそうな人生だとはちっとも思えなかったが、それでも今とは違う別の未来だってあることがどこか自分を安心させた。

だから私は連絡先を捨てなかった。

その紙に書かれたIDを友達に追加することはなかったし、そんなつもりもなかった。定期入れに閉まったまま、見返すこともなかった。

それでよかったとか、もしキャバ嬢になっていたらどうなっていたかとか、そんなことはどうだっていい。

あのころ、逃げ場がないと思って追い込まれていた私に別の選択肢も残されていることを示してくれたのがあの紙だった。

違ったら辞めればいいと言われたこと。別の人生だってあるのを気づかせてくれたことに意味があった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?