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誰かを好きになることをばかにしていた罰

高校生のころ、勉強が苦手な私はテストの度に再試を受けていた。同じように再試になる不真面目な層はだいたい決まっていて、再試を受ける教室にいるのは見慣れた顔ばかり。

それなのに、あるとき、再試とは無縁で頭の良いはずの友達が教室にいたから驚いた。
どうしたのかと思ったら、「好きな人ができて、テスト前に集中できなかった」と困ったように笑っていた。その場では「え〜、私なんていつでも集中できないのに(笑)」と冗談で返しながらも、「この子はばかなのかな?」と思ってしまった。どう考えても毎回再試になる私の方が頭は悪いのだけど、なんだか勉強できなかった理由がばかっぽいなと思った。

誰かを好きだとか、付き合ったとか別れたとか。懲りずにそんなことを何度も繰り返していたりだとか。恋人は途切れたことがないなんて言う人とか。
そういう人は、総じて頭が悪そうだと思っていた。だって、なんかダサくないだろうか。テレビをつければ世界中の悲惨なニュースが流れてくるし、もっと深刻な悩みを抱えている人はたくさんいるのに。そんなどうでもいいことに振り回されていて、しょうもない。そんなことばかり考えている人はどことなく安っぽいと思っていた。恋愛が絡むすべての物事がくだらないと思っていた。

それから何年か経って、まさか、ばかみたいで安っぽい自分になるなんて思ってもみなかった。好きな人ができて、その人と別れただけで、たったそれだけでいろいろなことが大きく変わった。

昔、『ブザービート』というドラマがあって、毎週欠かさず録画するほど好きだった。けれども、最終回でバイオリニストのヒロインが大事なレッスンをサボって彼氏のもとに行くシーンを見て、一気に興ざめしてしまった。「どうして自分の夢を投げ出すようなことができるのだろう」「だからこれまで仕事がうまくいかなかったんじゃない?」なんてフィクションなのに見下した。
でも、それももう笑えなくなった。自分の目標も夢も何も叶わなくていいし、何もいらない。何かを投げ出すくらいで手に入るものがあるなら、何でも捨てられると思った。

「くだらない」と思っていた恋愛ソングを聴くようになった。まさか、西野カナの曲で自分が泣く日がくるなんて思ってもみなかった。何度も再生してリピートで流し続けては、泣いて朝を迎える日もあった。

いくつかの恋愛小説を読んだ。映画も借りて観た。ラブストーリーは展開が退屈で、見てるとどうもウトウトしてしまうから好きではなかった。だから、別れてから初めてちゃんと見た。共感するときもあったし、よくわからないこともあった。「こんな映画よりも私のほうがもっと素敵な恋愛だった」と思ったりもした。フィクションに出てくるどんなヒーローよりも、自分が好きだった人のほうがかっこいいと思ってまた泣いた。

周りは「時間が解決してくれる」「新しい彼氏ができればすぐに忘れる」と言っていたが、何年経っても、誰と付き合っても、何も変わらなかった。いつになっても、安っぽい人生から脱することができなかった。

それでも、今では少しずつ思い出になっているから、時間と別の誰かがそれを和らげてくれたのかもしれない。
だけど、それらが解決したというにはあまりにも簡単すぎるような気がする。そんな簡単なものじゃなかった。

忘れることも、自分の気持ちが叶うこともなく、感情に振り回され続け、心は荒れ果て、すっかりチープな生活が定着した。こんな大人になるなんて想像できなかったし、なりたくなんて絶対になかった。

きっと、誰かを好きになることをばかにしていた罰があたったんじゃないだろうか、と思っている。真剣に誰かを好きになってる人たちのことを、ずっとばかにして、見下していた。だから、自分が本当に誰かを好きになったときにその気持ちを大切にできなくて、その結果、何よりも大切にしなければいけなかった誰かを失うことになったのではないだろうか。

今でも、後悔に襲われたり、胸がずきりと痛むことだってある。そんな自分が情けないし、とても恥ずかしい。みっともない人生になってしまったという感情は消えない。

ただ、そんな人に会えたこと、それだけ誰かを思い続けられること。

恥ずべきことである一方、私の中で誇りでもある。軽薄でダサくて頭が悪くて、それでいて私のかけがえのない大切な罰だ。

くだらないと思う気持ちも、忘れられない苦しみも、忘れたくない葛藤も、感謝もどうにもならないもどかしさも、全部全部ここには詰まっている。

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