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昨日、会社を辞めた。



というよりも、移転に伴い解雇となった。


一年半続いた職場で、

人間関係も良好で、

素に近い自分を出せる、とても居心地の良い職場だった。


とはいえパート。
交通費なし、ボーナスなし、最低賃金だったので人に対しては特に何もなくとも職場にはそれなりの不満はあって、

ずっといる場所ではない、どこかで見切りをつけて転職をせねばと常々考えていた。

しかしそんな場所に限って居心地がいいのだ。


仲の良い特定の誰かがいたわけじゃない。
きっと仕事で出会わなければ外で交流を持つなんて決してなかっただろう。

そんな人たちと縁あって出会い、
週5日、朝から夕まで共に働いた。

気が合うとか合わないとかではない。

選んだ職場に居合わせた人たち。


このただ居合わせた人たちは家族以外で一番長く過ごすことになる。

そう考えるとたかが仕事、されど仕事。

長く過ごすことになるということは自分に大きく影響するまた少なくとも自分も影響を与える側にもなる。

単にお金を稼ぐと割り切って深く考える必要もないだろうけれど、

一緒に過ごすということは自分の人生の時間をその人たちと共有していることにもなるのだ。

だとしたらどこへ行って誰と出会うか?は、

単純なようでいて深い。


“とりわけ仲が良いわけではない人たち”と実は結構な時間を一緒に過ごしているとは、考えてみれば不思議なことだ。


袖振り合うも多生の縁というならば何かしらの意味があって出会っているのだろうか。



働いていたときよく考えたことがある。

この職場が学校で、
この部署が一つのクラスだとしたらどうだっただろうか。
親しくなれるような友達はできただろうか。

この職場に限っては否だった気がする。

このご時世も相まっていることだが、多少仲良くなれたとしても深く付き合う友達はできなかったであろう。

現にそうだったから。


けれどもね。



毎日出勤して、
昨日見た連ドラやバラエティー
好きなアーティストや俳優、
新しくできたご飯屋さんやスーパー、
あれは美味しかった、まずかった。
あれは使える、使えなかった…

それこそみんな主婦なので、
地元の耳寄りな情報から子育てのことまで〜
いろんな話をしながら共に働いた。

あの人はあれが好き、この人はこんなことが得意。

次あったらこのことを聞いてみよう、話そう…

そういう空間がもう明日からはないのだ。

だからたかが同じ職場に居合わせた人たちといえど、

知らぬ間に自分の人生の一部になっていたことに気づいた。

予めリミットを予告されていたとはいえ、もうないとなると本当に心にぽっかりと穴が空く。



おしゃべりしながら働いて、
時間が来たらサッと帰る。

主婦に戻る。

最終日もそうだった。


みなさん、今までお疲れ様でした。


感極まることはなく、
このご時世だから送別会があるわけでもなく、かといって何か特別なものをもらうでもなく。

いつものように帰り支度をして、
いつものように事務所でタイムカードを押して、

お疲れ様。

名残惜しくその場に残る人はおらず、

また会ったら声かけて、

LINE繋がってるよね、


お疲れ〜。

また来週もここに来るかのような最後。



いつもならば一番最後に車を出す私は、

なぜか最後になりたくなくて、
さっさと車に乗り込み発車した。


私はここでの他愛もない会話とやり取りが好きで、

それは最終出勤日が近づけば近づくほど愛おしくなって、

ここで交わす会話ややり取りは、ここ(職場)にいるから成り立っていて、

ここから離れたらなくなるもの。

最終日が近づけば近づくほど、職場の人とのやり取りは楽しくておもしろくて、これももうすぐなくなるのかとさみしさが募っていった。


あっさりと、

いつものように帰っていった彼女たちも少しは同じ気持ちだっただろうか?

一年半しかいなかった職場で一番下っ端の私がそう感じたのだから、長く居た彼女たちはもっとだろう?

私よりも長く居て、私よりも年齢が上の方ばかり。

もっと不安でシビアだろう?


他人のことを考える暇があったらさっさと次の仕事を探さなければ。私にも生活があるのだから。

でももう少しだけ考えていたい。


やっぱり私にはあっさりはできない。また来週会うかのようなお別れは苦手だ。

しっかりとあいさつして励ましあって労って終わりにし、次に行きたい。

だからひとり、もう少しだけ振り返りながら気持ちを次に向けていこうと考えているのです。

強要はしないけれどもしこの気持ちをわかってもらえたらうれしい。




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