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真面目にやるのは簡単、真面目にふざけるのが難しくて価値がある

結局のところ、人生の価値とは「いかにふざけるか」に尽きるわけです。

個人にはポリシーがあり、家庭にはルールがあり、学校には校則があり、会社には就業規則があり、社会には倫理や常識があり、国には法律(暴力)があります。

こうした規範は我々を縛りつける一方で、それに従ってさえいれば、いちいちみずからの善悪や道徳感を考慮せずに行動できます。ある意味では規範は意思決定しなければならないという煩わしさからの解放であり、「自由」の源なのです。

規範に従うこと、それはすなわち「真面目にやる」ということです。規範から逸脱しなければいいわけなので、真面目にやるのはとても簡単です。誰かから叱られないように振る舞えているなら、あなたは真面目にやれています。

しかし、叱られることへの恐怖のために世の中には真面目があふれており、真面目であることに突出した価値が生じにくいのも事実です。いやもちろん、真面目であることには価値がありますし、真面目であることが極めて高く評価される界隈もあります。誰も非常識な輩と一緒にはいたくありません。

しかし、真面目はすでにコモディティ化しており、真面目なだけではウケません。注目されません。承認欲求を満たし「スキ」を摂取しなければ死んでしまう我々のような人間にとって、ただ真面目に生きるだけでは人生に価値を見出だせないのです。

我々の人生に潤いをもたらす方法はただ一つ、真面目への逆襲として「ふざける」ことです。そこに生じる落差こそが果実であり、我々を満たす根源となります。面白いと思ったものを見てみてください、「ふざけて」いますよね?

かといって、まったく規範に背いて無頼のごとく振る舞えば、所属コミュニティから追放されて物理的であれ社会的であれ死んでしまいます。死を望まないのであれば、我々は少なくとも社会生活を送るために必要なくらいは真面目でなければなりません。シャッターに落書きをしてはいけないですし、他人を故意に傷つけてはいけないのです。

だからこそ、我々は「真面目にふざける」必要があります。真面目という緊張の世界観に対し、ふざけることで緩和をもたらす。そうすれば、そのギャップに「スキ」がつきます。あなたのそばにいる人気者は、規範を嘲笑いながらも真面目な人であるはずです。

どれくらいふざければいいのでしょうか。その程度は所属コミュニティの真面目度合いによります。少しずつふざけながら、あるいはほかのふざけている人を参照しながら、超えると叱られる閾値を見極めることです。

真面目にやるのは規範に従えばいいので簡単です。ゆえに、真面目にふざけるのは難しく、価値あることになるわけです。真面目のまな板の上でいかに踊れるか、それが我々にとって人生の充実をもたらす方策なのです。

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