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私は「雑誌」でありたい、あるいは外れ値と出会うことの価値

このところ仕事でも私事でも雑誌的概念と向き合うことが増えていて、いやほんといまの世の中で「雑誌」に関心を持ってもらうだけでなく、さらにお金まで払ってもらうことが可能なのかと考えている。

たぶん、「雑誌」が持つ「未知と出会えること」にそれほどの価値が見出されなくなってきていて、だから多くの人にお金を払ってもらうのが難しくなっているように感じる。だとすればなおさら、僕が大きな価値を感じている「雑誌」を買ってもらうにはどうしたらいいのか?

接続という夢、分断という現実

かつてネットには他者同士を接続したり、関心事と非関心事に連続性をもたらしたりすることが期待されていた。ところが、とうの昔、10年以上前にネットが分断のツールであり、甘やかな期待とは反対の方向に発展してしまったことが指摘された。最近でもそういう議論は数多い。

ウェブメディア(ウェブマガジン)もSNSも、皆さんご存知のように自分が好きなものや好きな人としか繋がれないようになっているし、みんながそれを心地よく感じている。機械学習を用いた仕組みも、レコメンドやパーソナライズといった外れ値に出会う確率を極力減らそうとする方向に発展している。もちろん、僕たちが遭遇しているいろんな仕組みの中にはときどき外れ値が挟み込まれることはあると思うが、その出会いはけっして多くない。

それは言いかえれば、自分の興味に触れないところにある物事とは断絶されてしまっていて、さらにそういう状態を人類が望んでいるということだ。まあ、ごく自然なことだろう。

外れ値と出会わなくなった

(紙版または電子版の)雑誌が持っている最たる機能は、興味のあるジャンルやカテゴリーの詳しい情報を知れることにある。そして同時に、外れ値と出会う可能性を孕んでいることも重要だ。雑誌全体を通して大きなテーマは共通していても、その中にちょっとした異物が混入していて、読者はたまにはその魅力に気づいてしまう。雑誌を愛する人はその機能の価値を言い立てる。

でも、ウェブメディアやSNSが情報の集約と深掘りの機能を大々的に奪ってしまったことにより、異物混入の機能が捨て去られてしまった。僕たちは興味のないことに出会わなくなったのだ。書店が潰れるのもこうした価値観が裏にある。

こんな言い方をすると「そんなことはない」と反論が来るわけだが、そういう傾向があると受け取ってもらえれば充分だ。おそらく興味がないことがタイムラインやニュースフィードに流れてきても、多くの人は目が滑ってしまっていることだろう。

「雑誌」とウェブメディア

僕は別に雑誌それ自体が好きなわけではないし、定期的に買っている雑誌もない。ネットで購読している電子雑誌もない(仕事の必要で読んでいるものはいくつかあるが)。でも、雑誌的概念はすごく好きだ。

ここではそれを「雑誌」と表記しよう。単に雑誌と書くときは紙版か電子版の雑誌を思い浮かべてほしい。「雑誌」はより抽象的な概念で、興味のあるコンテンツも興味のないコンテンツも一緒くたのひとまとめにされたもの、を意味している(受動態には意図がある)。

ウェブメディアも総体として見れば「雑誌」ではある。ただ、ユーザーからすれば興味のある記事単体しか読まないことがほとんどだろう。それどころか、関心に近しいおすすめ記事が提示されていても、きっとそれほど読みにはいかない。興味のあることですら摂取するのに時間が足りていないのに、ちょっとしか興味がないもの、あるいは全然興味がないものに割く時間はないのだ。

そういう受容傾向があるからこそ、ウェブメディアはかなりテーマを限ったコンテンツを掲載するようになっている。むしろニッチを占めることがとても重要だと考えられて、例えばライフスタイルというテーマですら広すぎる。『MERY』のすべての記事に関心がある人はほとんどいないだろうし、『電ファミニコゲーマー』にしてもそうだろう。

いずれにせよ、外れ値への欲望はない。かろうじて自分がとても興味のあるジャンルや実用的なカテゴリーの中での未知との遭遇は求められているようだが、興味の外縁を越えた外れ値と出会うこと自体が求められていない、と思う。

外れ値に当たってしまうことほど時間の無駄はないというのも事実ではある。光るものを見出す時間もない。僕たちはなぜかとにかく忙しい。

教養主義の価値

僕自身は教養主義を信奉しており、浅くとも広く興味や知見を有していることに多大な価値があると考えている。それは必ずしも仕事の役に立つノウハウではないし、自分の生活が豊かになるような知識でもない。ただ頭の中の蓄積物が増えるだけのことのほうが多い。けれど、そうやって興味の外縁を少しずつ広げたり、飛び地のように知識の領地を拡大していくことが楽しい

そういう教養主義に照らせば、「雑誌」ほど相性のいいものはない。だから、雑誌は読まないけれど外れ値に出会うような行動を取るようにしている。

例えばnoteでなら、ホームの上部にあるメニューから適当にカテゴリーを選んで、その下に並ぶ記事を眺めることがよくある。編集部のおすすめもよく見る。自分の関心範囲では絶対に辿り着けない記事が多々あって、まさに「雑誌」として重宝している(編集部の関心が僕に接続されているわけで、ネットの夢が少しはここに実装されていると言いたい。思えば、いまは懐かしき個人ニュースサイトも同じような構造だ)。

なぜ僕が「雑誌」の好きな教養主義者なのかというと、世の中のいろんな理を知りたいという欲望があるからだ。どういう仕組みになっているのか、どうしてその仕組みにしているのか、そういう理だ。

この欲望が満たされる可能性、まだ見ぬ理に出会える可能性があるのであれば、「雑誌」にお金を払ったり、わざと外れ値に出会える仕組みや習慣を作ることをいとわない。タイムラインに流れてきたまったく興味がない記事を、興味がないからこそ読むこともけっこうある。

だが、多くの人はそうではないと思う。だからこそ、冒頭で「雑誌」にお金を払ってもらうにはどうすればいいのかと考えていると書いた。雑誌が読まれずウェブメディアに人が流れたのは、有料と無料の差もありつつ、そもそも外れ値に出会えるという「雑誌」の機能が必要とされていないからだ。その価値を信じて「雑誌」を売ろうとしている身としては、さてどうしたものかとたいへん悩ましい。

ちなみに、教養主義の対義語は実用主義らしい。ビジネスにおける課題解決という言い回しに鑑みるに、実用主義はお金になりやすい。

検索ワードを探して新しい地図を見つける

「雑誌」を擁護しているのは当然僕だけではないし、基本的には多くの人が否定はしないはずだ。でも、否定しないだけでそういう行動をしているかというと、たぶん違う(興味の内側を向いていることは別に悪くない)。

僕が覚えている範囲で「雑誌」を擁護した本に、東浩紀の『弱いつながり 検索ワードを探す旅』と宇野常寛の『新しい地図の見つけ方』がある(ほかにもあると思うのでぜひ教えてもらいたい)。

どちらも名著なので読んで損はない(実に教養主義的な謳い文句)。いずれにも共通するのは、物事を広く知っていると楽しいという価値観だ。浅く広くいろいろ見知った中で、特に興味を抱いたことは深掘りすればいいというメッセージも込められていると思う。

要は、深掘りしたくなる興味あることを見つけるためにこそ、いろいろ見知ることが大切なのだ。その立場なら、教養主義と実用主義は矛盾なく共存できる。自分が気づいていない解決すべき課題を知るために教養を深める、と。

そうは言ってもこのご時世、自分では「冒険」に出られない人も多いだろう。その解決策として、ハヤカワ五味はnoteやインタビューでたびたび編集者の重要性を説いている。どれだけ忙しい人でも、編集者が持つ地図を借りれば少しだけ未踏の地に足を踏み出すことができる。ここで言う編集者とは「雑誌」のことでもある。

これからのリテールって、編集者になるべきだと思っていて。目利き役のようなものですね。
そういう意味では、snaq.me(スナックミー)は素晴らしいですよね。snaq.meで頼めばほぼ確実に自分好みのお菓子が送られてきます。私はそのセレクト力というか、編集力を信頼してお金を払っています。

リフレーミングして届けてみる

ややこしいのは、興味のなかったことに興味を持てるということは潜在的に興味を持っていた、もしくは既存の興味に関する何かが含まれていたことの証拠ではないかということだ。それはそのとおり。

とはいえ、そこの区別は難しいし、議論する価値もないのでどうでもいいだろう。大意としては、興味のないことに対してすでに興味を持っている何事かの欠片を見つけ出せるかどうかということが大事だ。

ある人にとって興味がない物事に、実はこういう視点で見ると興味があるかも、と提案する手法はリフレーミングと呼ばれている。カルビーのフルグラはシリアル市場では苦戦したが、朝食市場にリフレーミングしたら成功した。

ビジネスにおいてこうした成功例はいくらでもある。例えば、既存の指標では価値が小さくても、別の視点で見れば新たな価値が生まれるかもしれない。

私はアプリ側がビジネスモデルを利用してインプレッションやPVをひたすら稼ぐという状況を変えたいと思っていました。一方で、私がいたスマートニュースは読者のことを考え、記事の読みやすさを重視する方向でプロダクトを作っていたため、ユーザーに煩わしさを感じさせるようなPV稼ぎをしていませんでした。しかし、これではいくらユーザーの満足度は高くても、PVを重視する広告主様からは選ばれにくくなってしまいます。

そこで私たちがビジネスに勝つために行ったのは、「指標を疑う」ということです。利用するユーザーのことを考えると、「1人あたりの利用時間が長いこと」は良いニュースアプリの新たな指標となり得ます。なぜなら、ユーザーにとって有益な記事は自然と離脱率も低くなり、ニュースアプリとしての本質的な価値を生み出しているからです。テクニックに走って表面的なPV数を稼ぐようなことをしないからこそ、ユーザーから信頼され、長時間の利用につながるはずであり、お客様が広告を出したいと考えるだろうと気づきました。

「雑誌」もリフレーミングとは切っても切れない関係にあるだろう。だが、根本的な問題がある。どういう媒体によって「雑誌」的価値を届けるかだ。それが編集者であり、人である。

「雑誌」としての人

一部を除いて雑誌がかつての勢力と影響力を失いつつあり、ウェブメディアもニッチを攻めざるをえないがゆえに多くが苦境に立たされている。どちらの関係者に訊いても返ってくる答えはだいたい「厳しい」。もしくは次なる成長の一手を模索中である。

だからこそ、『KAI-YOU』のような抽象的なテーマ(ポップカルチャー)を扱うウェブメディアが新しい方向に足を踏み出し、手応えを感じていることは朗報だ。

現状、月に数百人ペースでの推移で新たに登録してくれる人がいます。

これはKAI-YOU Premium構想段階において、考えていなかった数字でした。初月の無料期間で解約しても、また再度次月に登録し直してくれるユーザーもいらっしゃいましたし、増えています。

手応えの背景には間違いなく、同誌がこれまで紙の時代、そしてウェブの時代に積み重ねてきた信頼がある。もちろんそれは、そこに携わる編集者への信頼でもある。「KAI-YOUなら」「KAI-YOUの編集者なら」という一言に込められた価値はあまりにも大きい。

けれども、皆さんもそうかもしれないが、ウェブメディア(や雑誌)を意識して記事を読むことはほとんどなくなっているのではないだろうか。僕は『KAI-YOU』を含めていくつか好きなウェブメディアがあって記事は読むが、トップページを訪れることはほとんどないしすべての記事を読むわけでもない。

むしろ意識するのは人だと思う。追いかけているウェブメディアより、追いかけている人物のほうが多いのでは? その人物はおそらくインフルエンサーや編集者的な人だろう。その人を追いかけておけば、望みの情報が手に入りやすい。

Twitterでフォロワーを増やすコツとしても、テーマを絞って役立つ情報を発信することが挙げられる。Instagramのユーザーは興味のない投稿が続いたらフォローを外すという調査もある。

「アカウントフォローを止める理由」を聞くと「興味のない投稿が続いたとき」65%が多いが、「ビジュアルや世界観が好きではなくなったとき」30%も多い。「投稿回数が多いとき」も30%以上存在しており、回数が多ければよいというわけでなく、世界観や内容が重視されていることが分かる。

「雑誌」や教養主義にとっては厳しい調査結果だが、でも、本当に好きな人物であればその人の関心事すべてを共有したくなるのではないか?

雑誌やウェブメディアならそうはいかないだろう。興味のない記事ばっかりになればもはや訪れることもなくなる。ゆえに、人にこそ希望が宿る。「雑誌」としての人に。陳腐な結論だが、頑強な結論だ。

「興味がないこと」から「好きな人が好きなこと」へ

人を好きになるというのはとても魅力的な現象だ。興味を共有しているから、優しくしてくれたから、そういう理由で好きになることもあるが、明示的な理由はなくても衝動で好きになることも多い。「なんか好き」が成立してしまう。

そのメカニズムは多分に生物学的なもので、そこをハックするノウハウもいろいろある。オキシトシンやドーパミンの分泌を誘発する文法が開発されれば最強だ。テキストは難しいかもしれないが、グラフィックはその点で強力だ。食品に薬物を混ぜ込むのは違法だが。

あるいは、最初は役に立つ情報を発信してくれているからフォローするようになっても、だんだん「なんか好き」になっていくこともある。そうなると、その人が発信する自分には興味のなかった情報は「好きな人が好きなこと」になる。強い。あまりにも強い。

そこに到れる人物になるためには、やはり最初はお役立ち情報を発信して存在を知ってもらい、少しずつその人自身に興味を持ってもらうしかない。ニュースなど外的な情報の発信から、考えなど内的な情報の発信へ。そしてフォロワーがまったく関心のない情報発信へ(つまり「雑誌」化)。

これはまさにインフルエンサーの育て方の1つだ、とここまで考えて思い至る。例えばYouTuberにしても、ゲームの攻略情報や恋愛心理学のノウハウを扱った動画は観られてもその人が好き勝手に話す動画は観られない場合、その人自身に関心を持つファンがまだ少ないからだと言える。

こう考えると、「雑誌」の生き残る道はファンがいるような編集者を育てることにしかないのかもしれない。これは個人でならやりやすいし、インフルエンサーを育てて売る企業ならたやすく理解され実行されるだろうが、そうではない企業の場合はけっこう難しいのではと思う。企業の中の人をアイドル的カリスマ的な存在に育てるという考え方がないならなおさら。

僕が仕事で直面している課題もそこにある。いや、上記のように取り組むべき方向性は見出だせているしやり方も分かっているが、どうにもね……(それをやらなくても稼げる仕組みができあがっているので無理して取り組む必要もないのだが、時代に即した新たな収益基盤を作る際には必要なのだ)。

「雑誌」でありたい自分

自分が矢面に立つのもありではあるものの、部署も仕事も違うので難しい。それは例えれば、経理の担当者が会社の主要ブランドの顔としてメディアに出るようなものだ。

仕事ではそんな感じだとはいえ、個人としては僕はもちろんハヤカワ五味が言う編集者でありたいと思っているし、自分自身が「雑誌」でありたいと思っている。

noteやTwitterで僕をフォローしてくれる人は、まず間違いなくeスポーツの情報がほしくてフォローするだろう。特にnote(happy esports)ではそれに応えている。ただ、Twitterではゲームやeスポーツの情報は5割くらいで、2割がマーケティング、2割が生物学(科学)、1割がその他という感じの割合にしている。

そもそもTwitterのアカウントは生物学の面白さを色んな人に知ってもらいたくて作ったもので、11年来それは変わっていない。でも、僕が関心を持っている領域の生物学(進化の仕組みのところ)はぱっと分かるものではないので面白いと感じてもらうのは難しい、と痛感しながら11年が経った。

だから、一昔前はサブカル批評、いまはゲームとeスポーツをメインにしながら、それに関連するマーケティングの情報もツイートしつつ、そこにまったく関係のない生物学の情報をさり気なく混ぜている。僕自身や生物学に興味がない人の目には留まらないだろうが、僕の大好きな生物学の面白さに共感してくれる人が増えればいいなと今日も祈る。

僕がこの記事に(あるいはほかの記事でも)やたらと外部へのリンクを張るのは「雑誌」あるいはハイパーリンクに夢見ているからだ。

教養主義のための第一歩

ちなみに僕はハヤカワ五味が好きなので彼女がおすすめしていたVITAFULを吸い始め、snaq.meを使い始めた。皆さんもよかったらぜひ。

もし教養主義を味わいたい、興味の外縁をふらふらしたい、みずからを未知の荒野に追放したい、と考える人がいるなら、まずは他人の欲望を真似することをおすすめしたい。自分が関心や欲望を持っていない領域にとても簡単に踏み出せる。

自分が「雑誌」でありたいなら、自分もよその「雑誌」に影響されなくてはいけない。「雑誌」や教養主義がはたして僕が考えるほどに価値あるものとして皆さんに認識されているかは定かではないが、新しい言葉で検索できるようになるのは存外嬉しいものだ。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます! もしよかったらスキやフォローをよろしくお願いします。