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AIは趣味を奪わない

将来的に、AIが人の仕事を奪うと言われている。
これまでも、技術の進歩が人の仕事を奪ったことは多々あった。最近だとインターネットの発達を基にした各種動画配信サービスによってレンタルビデオ屋は絶滅に追い込まれようとしているし、Suicaの普及によって改札の切符を切る仕事はほとんどなくなってしまった。
ChatGPTや画像生成AIの流行を見ていると、今すぐでなくとも将来的には必ず、と思えてくる。

しかし、AIは趣味を奪わない。
趣味を楽しむ人は、その過程を楽しんでいるからである。言い換えれば、過程自体が目的となっている。

例えばロードバイクに乗る人の中には100km以上を移動する人がいる。移動できる距離も最高速度も車の方が上だが、ロードバイクに乗る人は自転車で移動するのが楽しいのであって、単に移動することが主目的ではないから自転車に乗る。

このような、技術は既に人のそれを上回っているが、趣味としての領域を奪ってはいない、という分野は今でもたくさんあるのである。たぶん、陸上競技などシンプルなスポーツのほとんどは当てはまるだろうし、AIが勝つようになってきた囲碁などにも当てはまるだろう。

AIが自動で適切な釣りポイントを設定し、ルアーが目標の魚に相応しい形に変形し、動きを調整して自動的に魚を釣ってくれる、というAI搭載の釣り竿があったとして、釣りを趣味にしている人は使うだろうか? もちろん使う人もいるだろうが、多くの人は釣りの楽しみを奪われたと感じ、使わないだろう。

一方で、釣った魚を市場で売って生活している人は、コスパの問題はあるにせよ便利な機械として導入する可能性が高いと思われる。
目的が「釣る過程」なのか「釣り上げることか」によって、AI搭載釣り竿の価値は変わってくるのである。

ChatGPTなどの生成AIも同じである。
趣味として文章を書いている人にとって、ChatGPTは脅威ではない。むしろ助けになる。
一方仕事でコラムや小説を書いている人にとっては脅威と感じるかもしれない。
(ただし個人的には、AIが奪うのは『当たり障りのない文章』だけだと思っている。が、将来的な進歩の結果どうなるかはわからない)

目的は、何なのか。
趣味でバーベキューをする人にとって、炭を買ってくるのか、木を切り倒すところから初めて炭を自作するのか、という選択は、どこを目的にしているかによって変わってくる。
屋外でわいわい友人たちとおいしい料理を食べることが主目的なら買ってくるだろうし、サバイバルしている感じを欲しているのなら木から作るかもしれない。

目的と手段は混同され、よく入れ替わる。
生成AIは道具であるが、何かを撮りたいと言うよりただ新しく買ったカメラを使いたい人、みたいに、何かを表現したいと言うより生成AIを使うこと自体が楽しい人はいると思う。そしてそうした人にとっては生成AIを使うことが目的で、趣味である。

また、過程自体が楽しいことを仕事にしている人もいる。趣味であると同時に仕事であるこのとき、生成AIは脅威になるかならないかは、その重きの置き具合によって変わるだろう。一般的には仕事が失われれば困るので、脅威に感じそうではある。

果たして自分にとって、AIは脅威か、便利な道具か、と考えることで、自分の仕事や趣味に対する態度が見えてくる、というお話。
あ、自分の描いた絵柄がAIに学習される、というのはまた、別のお話。

名角こま

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