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被害者を責める心理

事故や事件が起こると、世間の人々は誰かを責める。
誰が悪かったのか、どうすれば防げたのか、と。
直接の原因が責められることもあれば、直接の原因ではないけれど責められることもある。
責められやすい立場の人が責められるが、責める人の最終的なゴールは決まっている。「だから私は大丈夫だ」という心理である。

注意:原因の指摘の前提

因果関係は複雑に連鎖しており、単独にこれだと言い切るのはある程度恣意的になってしまう。
影響が大きいと思われる単独の要素や、普段は余り見られない、突発的な要素が原因だと見なされる。
以降の原因の指摘については恣意性がある。

責められるもの、責められないもの

例えば、福島の原発事故については、誰が責められているか。
東京電力と国である。

けれども東京電力も国も、事故の直接の原因ではない。直接の原因は、地震である。地震が起こらなければ、原発事故も発生しなかった。

しかし、地震は災害であり、避けられないものである。自然現象として起こるものだし、仕方のないものだ、と思われている。
また、人や組織ではなく、人格的なものもない。
責められないし、例えば地球を責めたとしても対応してくれるはずもない。責めてもどうしようもないから、第二の原因である東京電力や国を責めるわけである。管理はどうだったのか、そもそもの計画はどうだったのか、事後の対応はあれでよかったのか、と。

人が直接の原因の場合は、人が責められる。
なぜ、幼稚園バスに置き去りが発生したのか、保育士や保育園全体の体制が悪かったのではないか、と。

一方で、人や組織が直接の原因であっても責められない場合がある。
例えば暗い夜道を歩いていた女性が襲われた場合や、大金を持ち歩いていて盗まれた場合などは、暗い道を歩いていたのも悪い、大金を持ち歩いたり見せびらかしたりしたのも悪い、と被害者が責められることがある。

直接の原因、最も悪いのは、犯人である。襲った人が悪いし、盗んだ人が悪い。これらは人である。地球を責めるのとは違い、人であるから責めることができる。

にもかかわらず、追求の100%が犯人に向かうのではなく、一部が被害者に向かう場合がある。これは、犯人に襲われたり盗まれたりすることは、自然に発生してしまうもの、どうしようもないもの、という認識があるからである。

責めやすい立場の人・組織を人は責める。
自然現象や子供は責められない。

「私は大丈夫」という結論を目指して

責める側の心には、社会的正義、義心からの指摘ももちろんある。
ただ、それとは別に、自分がそうした事故や事件に遭うとは思いたくない、という気持ちが混じっている。
誰しも、自分が事故や事件に巻き込まれるかもしれない、とは思いたくない。
だから、他人を責める。
責めて「だから私は被害には遭わない、私は大丈夫だ」との結論を導き安心したいのである。

「東京電力や国が悪かったとこれだけ責めておけば今後はきちんと対応するだろう。地震という自然災害が起こるのは仕方ないが、東京電力や国がきちんと対応してくれれば私は大丈夫だ」

被害者を責める心理も同様である。
犯罪は災害のように、自然に起こってしまうもの、仕方のないものだとの認識は、言ってしまえば偶然襲われるということを意味している。偶然は誰にもつきまとうもので、「私」も被害に遭る可能性がある。

しかし「私も事件・事故に巻き込まれてしまうかもしれない」とは考えたくない。強いストレス要因となるからである。

だから、被害者の落ち度を見つけて責める。
「被害者は夜道を歩いていたから被害に遭ったのである。私は夜道を一人で歩くようなことはしない。だから大丈夫である」

被害者が嫌いだから、憎いから被害者の落ち度を責めるわけではない。自分にも起こりうると思いたくないから責めるのである。

イテウォンの事故にも

2022年10月29日に起こった韓国・イテウォンの圧死事故についても同様の傾向が見られる。

どのような事故だったか。
ハロウィン直前の週末、若者たちがイテウォンという場所に大勢集まり、あまりの過密具合に150人以上が亡くなる圧死事故が発生してしまった。1㎡20人以上が集まっていた計算になるとか。
何かのイベントで集まっていたわけではなく、若者たちは自主的に集まっていた。事故発生前には警察に何度か通報が行っているが、出動した人数が少数だったり遅かったりと報道されている。

事故から一週間が経った今、新聞やニュースを見ていると、責められているのは警察、そして国である。
もちろん、国民性や政治的な要素もあるにせよ、ここにも同様の「私は大丈夫だ」の心理があるように見える。

イテウォンの圧死事故の直接の原因は、人が多く集まっていたことである。何かのイベントとして主催者がいたわけではなく、若者たちは自主的に集まっていた。

けれども人が集まること自体に落ち度は中々見つけづらい。なぜなら多くの人にとって、お祭り、テーマパークほか、大勢集まることは容易にあり得る事態だからである。ということは、自分も事故に遭う可能性がある。

だから、より責めやすい警察の落ち度を責めている。仮に、警察の対応が適切だったとしても事故は起こってしまったかもしれないが、自分も行いうる「大勢いる場所に集まる行為」より「警察の落ち度」を責めて改善を促す方が、「だから自分は大丈夫だ」と思いやすいのである。

もし、警察が可能な限りの対応を取り、それでも事故が起こった場合はおそらく「人が多く集まる行為」を更に分解し、「ハロウィンパーティーに多く集まる行為」として批判されていたことだろう。

「私は特にハロウィンに興味がないから、ハロウィンパーティーにも行かない。だから私は大丈夫だ」と。

そしてこの心理は、責任を問う形にこう変化していただろう。
「ハロウィンなんて外国のお祭りに行く人が悪い」と。

責めることの功罪

責めること、責任を追及することで次の事故・事件を防ぐ意味合いは確かにある。どうしようもない悪意をそれでもなるべく避けるため、対処法を提案する意味もあろう。

けれども、自らの安心のため、必要以上に責めるのはよくない。
自分の子供が突然いなくなる恐怖は理解できるし目を離さないようにしようと決意を新たにするのは良いが、「母親が意図的に失踪させ、あるいは殺してしまったのではないか」との視線を被害者に向け、傷つけることは戒めねばならない。

事故・事故に遭うかもしれない、というストレスをエネルギーに変え、対処法に注ぐべきである。
皆同じ心理にいる、と思うことで、被害者に優しく、冷静に次の事故・事件を防ぐ案を検討できる、そんな世の中へ、みんなで。

名角こま

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