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名文today_98/『海をあげる』

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風花。今日、お母さんがあなたに教えたものは、誰にも自慢できない、ぐちゃぐちゃした食べものです。それでもそれなりに美味しくて、とりあえずあなたを今日一日生かすことができて、所要時間は三分です。
これからあなたの人生にはたくさんのことが起こります。そのなかのいくつかは、お母さんとお父さんがあなたを守り、それでもそのなかのいくつかは、あなたひとりでしか乗り越えられません。だからそのときに、自分の空腹をみたすもの、今日一日を片手間でも過ごしていけるなにものか、そういうものを自分の手でつくることができるようになって、手抜きでもごまかしでもなんでもいいからそれを食べて、つらいことを乗り越えていけたらいいと思っています。
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地形が変わるほどの爆弾が撃ち込まれるのが戦争だということを、子どもたちが次々と亡くなるのが戦争だということを、子どもと自分はいつまでも一緒だと告げて亡くなった母親がいるのが戦争だということを、飢えと恐怖で生理が止まるのが戦争だということを、そして、あのおばあちゃんはそれらのぜんぶを経験したあと、もう一度、あそこで土をたがやして生きてきたのだということを、どのように娘に伝えたらいいのか私はまだわからない。
恐怖で眼を見ひらく娘に、戦争があったのはほんとうにはるか遠く、これはむかしむかしのお話だと、私はいつか娘に言ってあげられるのだろうか。

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インタビューを書き起こしたデータをみながら、書くことによって、和樹のそうした日々が肯定されていいのだろうかと私は迷っていた。だが、取材した話を書かないことも違うように私は思う。
和樹のインタビュー記録を、データのまま出してみようと思う。これは、沖縄で殴られながら大きくなった男の子が、恋人に援助交際をさせながら数千万円以上稼ぎ出し、それをすべて使いはたし、その恋人に振られて東京に出て、何もかもを利用しながら新宿の喧騒のなかで今日も暮らしている、そういう記録だ。
いつか加害のことを、そのひとの受けた被害の過去とともに書く方法をみつけることができたらいいと、私はそう思っている。

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そうやって聞き取ったほとんどは、しばらくのあいだは書くことができないことだ。語られることのなかった記憶、動くことのない時間、言葉以前のうめき声や沈黙のなかで産まれた言葉は、受けとめる側にも時間がいる。

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子どもたちには、それを話す言葉がない。子どもの言葉が、聞き取られる場所がない。

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保育園に娘を預けてからひとりで農道を歩いて車に戻り、辺野古に向かう。
移動しながらいつも思う。富士五湖に土砂が入れられると言えば、吐き気をもよおすようなこの気持ちが伝わるのだろうか? 湘南の海ならどうだろうか?

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でも私が黙りこんだのは、沖縄に気軽に行ける彼の財力ではなく、その言葉に強い怒りを感じたからだ。あの子の身体の温かさと沖縄の過去の事件を重ね合わせながら、引き裂かれるような思いでいる沖縄のひとびとの沈黙と、たったいま私が聞いた言葉はなんと遠く離れているのだろう。
それから折に触れて、あのとき私はなんと言えばよかったのかと考えた。私が言うべきだった言葉は、ならば、あなたの暮らす東京で抗議集会をやれ、である。沖縄に基地を押しつけているのは誰なのか。三人の米兵に強姦された女の子に詫びなくてはならない加害者のひとりは誰なのか。
沖縄の怒りに癒され、自分の生活圏を見返すことなく言葉を発すること自体が、日本と沖縄の関係を表していると私は彼に言うべきだった。言わなかったから、その言葉は私のなかに沈んだ。その言葉は、いまも私のなかに残っている。

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切実な話題は、切実すぎて口にすることができなくなる。

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だから、爆音の空の下に暮らしながら、辺野古に通いながら、沈黙させられているひとの話を聞かなくてはならないと、私はそう思っている。

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沖縄のひとたちが、何度やめてと頼んでも、青い海に今日も土砂がいれられる。これが差別でなくてなんだろう? 差別をやめる責任は、差別される側ではなく差別する側のほうにある。

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そして私は目を閉じる。それから、土砂が投入される前の、生き生きと生き物が宿るこっくりとした、あの青の海のことをかんがえる。
ここは海だ。青い海だ。珊瑚礁のなかで、色とりどりの魚やカメが行き交う交差点、ひょっとしたらまだどこかに人魚も潜んでいる。
私は静かな部屋でこれを読んでいるあなたにあげる。私は電車でこれを読んでいるあなたにあげる。私は川のほとりでこれをよんでいるあなたにあげる。
この海をひとりで抱えることはもうできない。だからあなたに、海をあげる。

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上間陽子/『海をあげる』/2020/筑摩書房

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