見出し画像

「文系脳」と「理系脳」

先日、こんなツイートを見かけた。

最近こういった類の診断をよく見かける。そこでは「文系脳」は情緒的で「理系脳」は論理的であると説明されることが多い。これは「文系」と「理系」に対する世間のイメージを反映したものといえる。果たしてこのイメージは妥当なのだろうか。

理系と文系の違いは記述方法

思うに、「文系」も「理系」も学問である以上、いずれも真実の探求を目的とし、論理を手段とする。では何が異なるのか。それは論理の記述方法だ。「文系」では自然言語による定性的な記述、「理系」では数式による定量的な記述が用いられる。もちろん、同一の学問が双方の記述方法を用いることも珍しくない。そのため、「文系」と「理系」の境界はグラデーションになっており、両者の区別は相対的といえる。どちらの記述方法をメインに据えるかで一応両者の区別を付けているのが現状だろう。

文系脳と理系脳 表1

したがって、「文系は情緒的で理系は論理的」という診断表のイメージは妥当か、との問いに対しては、ひとまず「妥当でない」と回答することになる。

なぜ記述方法が違うのか

以上のような記述方法の違いは、分析対象のモデル化可能性の差異から生じるものである。物理現象や化学反応、身体の一部における生物的作用は、比較的容易にモデル化することができる。そのため、定量的な記述(数式による記述)を用いても、現実とあまり乖離することなく論を進めることができる。一方で、人間の思考や心理、経済や法律といった社会全体の動きは、変数があまりにも多すぎるため、正確にモデル化することが困難である。そのため、定量的に記述すると何らかの重要な変数を看過することは避けられず、モデルが現実と著しく乖離してしまう。そこで、定性的な記述を採用することになる。自然言語はそれ自体が様々な変数を包摂しているため、このような場合にも用いることができる。

文系脳と理系脳 表2

従来は定性的に記述されていた分野であっても、変数の解析が進み緻密なモデル化が可能になれば、定量的な分析が用いられるようになる。そうすると「文系」から「理系」への移行が生じる。例えば、脳科学は従来哲学の領域であったのだが、現在では生物学や医学として分類されることの方が多い。また経済学においても、かつてはマルクス経済学のようなイデオロジカルな記述方法が主流であったのに対して、今では計量経済学のような定量的な記述を用いる分野が多くなっている。

記述方法の違いがもたらすもの

数式による定量的な記述は一義的かつ固定的であるのに対して、自然言語による定性的な記述は多義的かつ流動的だ。同じ単語であっても時代や文化によってその意味は変動する。そのため、数式による記述は論理を「点」で表現できる一方で、自然言語による記述は論理を「領域」で表現せざるを得ない。もちろん、文系では用語を正確に定義することで「領域」の面積を小さくしようとする絶え間ない努力がなされており、その傾向は法学において顕著だ。しかし、それでも「領域」は「点」にならない。そうすると、数式による記述は一本の論理の「線」を確定させるのに対して、自然言語による記述は複数の「線」を引く余地を残すため、どうしても論理に「揺らぎ」が生ずる。

文系脳と理系脳 図

この「揺らぎ」を収束させるために、文系では論理の補足が行われる。この「補足」は常識や合理性、整合性といった観点からなされることが多い。問題文の記述に論理的な揺らぎがないことを自明とし文理解釈的に論を進めていくのが「理系」、揺らぎが存在することを前提として常識や合理性による補足を行うのが「文系」、という言い方もできるかもしれない。

文系脳と理系脳 表3

「おつり診断」には一理アリ…?

ここで、最初のツイートに戻ってみてほしい。百円玉3枚で130円の買い物をしたら何円おつりが返ってくるか、という問題だ。どうやら、70円と答えるのが文系脳、170円と解答するのが理系脳らしい。私は最初にこれを見たときは、いかにもステレオタイプで粗雑な分け方だと感じた。しかしよく考えてみると、実はある意味で文系と理系の違いの核心を突いていることがわかる。70円のおつりが返ってくると考えた人は、必要最小限の硬貨を支払うはずだという常識や合理性のもと、「300円のうち200円を支払う」という小前提を補足している。一方で、130円のおつりが返ってくると考えた人は、300円を所持しているという問題文から「300円を支払う」ことを当然に導出している。これは、先に指摘した「論理への向き合い方」の違いを端的に反映している。すなわち、文系は問題文に論理の揺らぎが存在することを前提にそれを補足しようとするのに対して、理系は問題文を論理的に揺らぎのないものとして捉える、という違いだ。この意味で、「おつり診断」は一定の意味を持つように思う。

ただ、「買い物が想像できるから」とか「論理的に考えて」といった理由付けは間違っている。これは想像力や論理性の差異ではなく、論理にどのように向き合うかという問題なのだ。どちらが正しいとか、どちらが情緒的/論理的かという話ではない。したがって、文系脳/理系脳診断を総体的に見た場合、やはり妥当性を著しく欠くといわざるを得ない。

怪しげな診断表のご利用は計画的に

私がこの類の診断を好ましく思わないのには、もう一つ理由がある。それは、「文系脳」「理系脳」という言葉がコンプレックスの言い訳になりつつあるように思えるからだ。「理系脳」って、コミュニケーション不調を相手の非論理性のせいにして溜飲を下げるための道具になっていないだろうか。「文系脳」って、思考の粗雑さを協調性や柔軟性に置き換えて安心するための方便になっていないだろうか。「理系」と「文系」がコンプレックスを治癒/刺激する装置となってしまえば、いらぬ蔑視や嘲笑を生み出し、両者の相違の核心を見失わせる。

以上の点を踏まえたうえで「お遊び」や「気休め」として割り切るのが、こういったアヤシイ診断との賢い付き合い方だと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?