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オリンピック開会式がまさに「日本」だった件

先日の開会式に関する巷の反応を見ると、個別のパフォーマンスに対しては称賛の声が多いのに対して、全体の出来映えに対しては「まとまりを欠く」「何を伝えたいのか分からない」といった否定的な意見をよく見かける。私も概ね同意見であり、良質な個を集めてダメにするというのはいかにも日本らしいじゃないかと自虐的な諦観すら抱いた。しかし一方で、そうはいっても流石にこれは改善しないと日本はこの先マズかろうという危機感も覚えた。そこで、まずは日本社会特有の組織構造や意思決定過程に触れたうえで、組織委員会が開会式をこのような出来にしてしまった理由について少し考えてみようと思う。

日本のリーダーは「引責型」

組織はリーダーの性質によって決まるところが大きい。リーダーの性質について様々な分類が試みられているが、表現の差はあれ多くは「調整型」と「統括型」の二類型を基本としているように思われる。前者は組織内の様々な対立的利害を調整して一つの妥結点を探るタイプであり、後者は自ら方向性を定めたうえで構成員をそれに従わせるタイプである。日本では前者が、欧米では後者が多く、日本でも後者を育成するべきだ、というのがステレオタイプな議論だ。しかし、こうした類のリーダー論は日本の実情とあまりに乖離している。日本では「調整型」でも「統括型」でもない第三類型のリーダーが組織の頂点に鎮座しており、それが日本の組織構造ひいては意思決定過程に歪みをもたらしているように思えてならないからだ。

この第三の類型は「引責型」と表現できるだろう。リーダーなのだから責任を引き受けるのは当然だと思う方もいるかもしれない。もちろんそれが常識的な感覚である。しかし、現実はそうなっていない。責任を取るという当然の役割を果たせる人材は実際のところ稀少である。だからこそ、きちんと引責する者が重宝されることになる。「調整」も「統括」もしないが「引責」はするというのが一つのカテゴリーとして成立してしまっているのだ。

引責型リーダーのもとではミドルアップダウン方式で物事が決まる

リーダーの類型は組織の意思決定過程に影響を及ぼす。調整型のもとではボトムアップ式の意思決定が行われやすく、統括型のもとではトップダウン式の意思決定が馴染みやすい。では引責型の組織ではどうか。リーダーが調整も統括もしないのであるから、その役割をだれかが代わりに担わねばならない。この代役はボトムでは到底担えない。ある程度の経験と能力を得たミドルが引き受けるしかない。つまり中間層がトップの意見を伺いつつ方針を決定してボトムを統括あるいは調整するという、いわば「ミドルアップダウン式」の意思決定となる。これは日本の組織でよくみられる光景ではないだろうか。

引責型のもとでのミドルアップダウンが間違っているわけではない。明治維新での意思決定はまさにこれだった。下級藩士たちミドル層が中心となって上を突き動かしていった。日本の高度経済成長を支えたのもこの意思決定スタイルだった。戦場帰りの中堅サラリーマン達が企業戦士となって会社を支えた。一般的にミドルはトップよりも「今の現場」を理解しており、ボトムよりも経験を積んでいる。そのため、ミドルアップダウン式の意思決定はある意味で理想的なスタイルともいえる。

しかし、これには重大な留保が付されている。それはミドルが優秀でなければならないという当然の留保だ。トップとの調整、ミドル層間での調整、ボトムとの調整、ボトムとトップへの統括など、ミドルには様々な能力が求められる。彼らにはトップダウン式でのトップやボトムアップ式でのボトムよりも厳しい仕事が与えられる。そして往々にしてミドルはトップ程の大局観や責任感を持ち合わせていないし、ボトムほどの勢いや柔軟性も失いつつある。だがそれが通常なのだ。むしろ明治維新や高度経済成長が例外だった。自分たちがやらなければ日本が植民地化される、自分たちがやらなければ日本は焼け野原のままで世界から置いていかれる。こうした生活に根差した危機感が当時のミドル層にはあった。そのため彼らはミドルアップダウン式の意思決定構造を支えていけた。日本が存亡の危機に瀕していたからこそなし得たことであるように思える。

ミドルアップダウンに失敗した組織委員会

ではミドルが凡庸だったらどうなるか。実効的な統括や合理的な調整をする者が誰もいない。その結果、統括型組織よりもまとまりがなく、調整型組織よりも合理性を欠くという最悪のキメラが誕生する。そのあまりにも分かりやすい例がオリンピック組織委員会だ。組織委員会のトップである森喜朗氏は自ら何かを決めたり対立する意見をまとめあげたりする能力を持つわけではない。「いざというときは自分が責任を取る」と宣言し人望を得ることで生き残ってきた政治家だ。森氏は典型的な引責型リーダーだといえる。そして森氏の下で諸々を仕切っていたミドルが例の電通関係者たちだった。彼らがミドルとして有能だったか無能だったかはほぼ意見が一致するところだろう。

演出チームの初期メンバーだった野村萬斎氏やMIKIKO氏が組織委員会の方針に必ずしも賛同しなかったことは広く報道されている通りだ。そして委員会は才能あるメンバーとの「調整」に失敗し、彼女たちを追い出すという選択を採るに至った。しかし委員会は自分たちのアイデアを貫徹させるのではなく、IOCからMIKIKO案の方が良かったと言われたためか、彼女のアイデアをつぎはぎするという暴挙に出たという。「統括」的な意思決定にも失敗したのだ。その結果完成したのが先日の開会式である。個々のパフォーマンスは良質なものであったにもかかわらず全体的なまとまりが欠けていたのは最初に述べた通りだが、これは意思決定過程の粗雑さを反映しているようだった。

正常な意思決定を阻む縁故主義

この現象は日本社会に遍くみられる。では何を改善すればよいのだろうか。ボトムアップ式やトップダウン式を取り入れろというのは現実的な解決策ではない。劣化版ミドルアップダウン式の意思決定があまりにも強固に日本社会に浸透しており、これが容易に揺らぐとは思えないからだ。そうであるならば優秀なミドルを見つけるか育てるしかない。

しかし日本には縁故主義的な人事慣習が蔓延しており、それがミドルの獲得や育成を阻んでいる。武藤敏郎事務総長が「気心が分かっている」人を集めたと話したように、組織委員会でも解任騒動以降は縁故主義が横行していたのであろう。その結果、MIKIKO氏のような気概と能力のあるミドルを選び損ねたのではないだろうか。お友達同士であれば統括も調整も必要ないし、失敗しても引責すらしなくて済むかもしれない。だからトップが縁故主義に陥るのも理解できる。だがそれでは植民地化や敗戦レベルの国難が訪れるまで何も変わらない。統括も調整もできないのであれば、自己の無能性を突き付けられるのを覚悟して、せめて人選に力を入れてほしいと思うのである。


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