フラットでいること

突然だが、自分の目の前に「このあいだ話してた好きな人と付き合い始めたよ」と言って嬉しそうにしている友達がいるとしたら、どうするだろうか。

私の場合はというと、「よかったね!」と言い一緒になって喜び、かといってさほど興味もないのでその後友人にどのような経緯で付き合うようになったのか聞いて相槌を打って終わると思う。

しかしどうやら世の中には、そのような報告を受けて涙を流して喜ぶ人がいるらしい。

この話はつい昨日会った仲良しの先輩から聞いたのだが、私は心底驚いた。他人の恋が成就したことに対して、そこまで心を動かせる人がいるのかと。

これだけ聞くとまるで私がひどく冷酷な人間のようだが、そういうわけでもないと自分では思っている。

友人が悩んでいるときは話を聞くし、嬉しいことがあれば一緒に喜ぶし、嫌なことがあったときは共感しなだめるだろう。

でも、私はそこにある一定の上限があって、そこを超えて誰かによって感情を揺り動かされたことがない。

例えば落ち込んでいる友人のために家を飛び出すとか、深夜でも電話するとか、授業をサボってどこかへ連れ出すとか、そういった類の話を聞くと、私はそういうことはしようと思ったことがないな、と思う。

「いつもフラットなところがいいね」と言われることが多いが、それは長所であると同時に短所でもあると思っている。

人に共感しすぎない分、客観的に落ち着いて話を聞けるし、自分を見失っている人に対して違った視点からアドバイスをできる。

しかし一方で、一緒になって怒る・悲しむ・涙を流して喜ぶ、という大きなエネルギーを消費する行動に出ることはない。

最近、そういう自分はもしかして他人に興味がなくて、自分が良ければそれでいいという大変に自己中心的な人間なのではないかと思ってめちゃくちゃ悲しくなった。

そんなときに、また違う人から聞いた話で、”自分が他の人に迷惑をかけられたとき、自分はそこまで怒ってないのに友人が涙を流して自分のために怒ったことがあった”、というものがあった。

それを聞いて、そこまで人のために怒ることができるって共感性が高くて感情豊かでいいなあと思ったけれど、でもその怒りは一体誰のためなのだろう、とも考えた。

当の本人は別に怒っていないのに、他人で何の関係もない友人が怒り狂って涙を流すというのは、いったい誰が求めてそうなったのだろう。

あれ、もしかして、そうやって共感してひどく感情を揺り動かしているのって、その人の自由意思でやってる…?

そう思うと、なんだかそれも言ってしまえば自己中心的なことなのかなとも思えてきた。なんだ、私と変わんないじゃん、と。

いや、人によっては「友人のために涙を流しているのに一緒にするな!」と言うかもしれない。でも私は、”誰かのために”何かをしようという姿勢は、何をするにしても意味の後付けができてしまう、とても不安定な状態だなと思ってしまう。

例えばこれは私の実体験だが、家で洗っていない皿が溜まっていて、それを片付けようと思ったときに、別に「いつも洗い物をしてくれている母のために!」と意気込んでやっているわけではない。

しかし、洗い物が終わっているのを見た母は私に感謝をする。そこで、私は「自分は母の感謝を得るために洗い物をしたのだ」という錯覚に陥る。それで例えば次の日にありがとうと言われなかったら、「なんで洗い物をしたのに…」と思ってしまうかもしれない。最初は感謝を求めたわけではなかったのに。

誰かのために、なんて後からどうにでも付け加えられる。そこだけに基づいた行動は結局は回り回って自分に返ってくることを期待したものが多いし、本当に誰かのために行動しようと思ったら、それをわざわざ伝えるまでもなく体が勝手に動いているものだろうと思う。

私は読んで分かる通り死ぬほどひねくれているのでこういう見方をしてしまうが、私が聞いた話の中で誰かのために感情を動かせる人たちは、みんな本当に心からその「誰か」を大切に思っているのだ、ということはまちがいないのだろう。そこに関しては私にないものを持っているので、素直にすごいな、と思う。

こんな冷淡(実際そうでもないけど)な私にも仲がいいと言える友人は何人かいて、その人たちは私のことをうまく利用して相談を持ちかけてきたり、他の人にできないような暴露話をしてくれたりする。大いに結構だしどんどん使ってくれと思う。しかし頼って欲しいというわけでもないので、言いたいときに言ってくれというスタンスである(進んで頼られようとする人ってなんか品がない、って思ってしまう…)。

なので私はこれからもこのフラットさ、テンションの変わらなさを貫いていきたいと思う。これを職業に活かすとしたら何だろう!教えてくれー!



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