ともだちにならう蜜柑を剥いてあげる/喪字男

ともだちにならう蜜柑を剥いてあげる/喪字男(「彼方からの手紙」9号)*1

初めてこの句を見たとき、怖いと思った。今でもそう思っている。一見どこにも怖い要素はないのに怖さを感じさせる、すごい句だと思う。それは、怖い言葉を使って人を怖がらせるよりもずっと難しいことだ。
蜜柑を剥くことで友達になろうとする不器用で温かい句という読み方もできるようだし、もしかすると作者の意図はそちらかもしれない。
しかし、なぜ私はこの句を怖いと思ったのか。考えてみた。

●前提として
①意味。二通りの解釈ができる。
・ともだちにならう(、そうしたら)蜜柑を剥いてあげる
・ともだちにならう(、そのために)蜜柑を剥いてあげる
私は後者の読み方をした。蜜柑を剥いてあげるからともだちになろう、の意味だ。
②この句を、発言をした側ではなく言われた側として受け取った。
③主体は子どもではなく、大人(このあともうちょっと詳しく書くよ)。
※短歌で使う「主体」という言葉を、俳句でも使うのか分からないけれど、この句の動作主・発言主と思ってほしい

●主体は大人
蜜柑を剥けばともだちになれるという発想が、大人のそれではないように思う。幼稚園児ならかわいい。園児Aと仲良くなりたかった園児Bの句だと思えば微笑ましい。もしかしたら初恋かもしれない。なんならBがAに剥いた蜜柑を差し出しているところを写真に撮って卒園アルバムに載せ、10年後ぐらいにBにその写真を見て恥ずかしがってほしい。話が逸れた。
私はこの句の主体は良い年の大人だと思った。発言(または心のなかで思ったこと)であるこの句で、「蜜柑」が漢字であることが大人びているし、さらに旧仮名によって醸し出される老成した雰囲気。そのせいだと思う。【ともだちになろう蜜柑を剥いてあげる】という現代仮名の表記であればイメージする年齢はぐっと下がるように思うし、無邪気な明るさも出る。
良い年の大人が、子どものような発想をしているという、そのミスマッチにまず少し立ち止まる。ともだちはわざわざひらがなにしてあるのに、蜜柑は漢字というのも気になる。句の前半はひらがなばかりであどけなさを感じるのに対し、後半は漢字が詰まっていて、ちょっと迫り来るものがあるのだ。

●二人の関係と、そして蜜柑の必然性
これからともだちになろうとするのだから、当然今はともだち未満のはずだ。ともだち未満の人間に剥いてもらった蜜柑、ずいっと差し出されて食べられますか?「いや、自分で剥くんで、大丈夫っす」とならないか。そうなのだ。大人ならば蜜柑は本来、自分で剥いて然るべきなのだ。家族など親しい人が剥いてくれるならまだ分かる。しかし思い出してほしい、相手はともだち未満の人間である。
これが林檎ならまだ分かる。【ともだちにならう林檎剥いてあげる】、林檎を人に剥いてもらうことには違和感がない。むしろ一つの林檎を分け合うのに「自分の分は自分で剥いてね、はい」と果物ナイフを渡される方が不自然だ。多くの場合、一人が二人分剥いてしまうと思う。
蜜柑はナイフではなく、手で剥く。べたべたと手で剥く。それもなんだか生々しいし、友達ですらない人間がみしりみしりと剥いてくれた蜜柑、なんかちょっと怖くないか。怖いけれども良かれと思って相手は剥いてくれているからどうにも断りづらいこの感じ。これもなんだか、うっという気持ちにさせられてしまう。

●これは勧誘ではない
ともだちにならう蜜柑を剥いてあげる、これは「ともだちになりませんか?」と相手を誘っているのではない。勧誘ではない。なぜなら、間髪入れずに「蜜柑を剥いてあげる」と言っているから。【蜜柑を剥いてあげるともだちにならう】ならまだ、誘われた側にもぎりぎり拒否権がある気がするが、そうではない。相手の返事は待っていない。非常に自分本位だ。暴力的なまでに性急に距離を詰め、ともだちになろうとする。蜜柑を剥いてあげるからともだちにならう、蜜柑を剥いてあげるねほらもうきみはともだちになったも同然だよほら食べて、みたいなニュアンスがある。この主体の世界には主体の意思しかない。ともだちにならう蜜柑を剥いてあげる、倒置法によって断定口調で終わっているからこそ主体の強い意志を感じるし、この人と蜜柑に追いつめられるような気持ちになる。

●極めつきの「あげる」
剥いてあげる、と言う。~してあげる、だなんてまるでこちらがそれを望んだみたいではないか。ともだちになりたかったのもそのために蜜柑を剥きたかったのも主体のはずなのに、いつの間にかそれはこちらのためにやってもらうことになってしまっている。なんだこの奇妙なねじれ方は。

●この蜜柑を食べたらどうなるか
別にどうもならないと思うんですよ。白雪姫の林檎じゃあるまいし、食べて長い眠りについたりはしないと思う。ただなんだか契約じみているのだ。友達になることに明確な線引きなどないはずなのに、この蜜柑をもらって食べてしまったらともだちになってしまって、あとになって逃げようとしたら「でもきみはあのとき蜜柑を食べたよねともだちだよね」とでも言われそうなのだ。食べるという行為は、取り返しがつかない。食べた物は相手に返すことも捨てることもできないし、己の血となり肉となるしかない。この蜜柑は体の一部になってしまう。
食べてどうなるわけでもないだろうけれど、食べてみないとどうなるか分からない、どうかなるかも分からないという、もんやりとした不安。分からないということは怖い。これなら、食べたら確実に死ぬと分かっている方がまだ怖くない。

分からないことは怖いと書いた。
今回この感想のようなものを書くことで、分からなさが薄れて怖くなくなってしまったら寂しいと思った。
けれども書き終えた今句を読み返すと、やはりちゃんと怖い。いくらか字数を使ってこの文章を書いたけれども、それでも掴み切れていないものがあると感じるし、相変わらず得体の知れない気味の悪さがある。いくら考えてもいくら書いても、うっすらと暗く光っているような、あるいは光を飲み込んでしまうようなこの句を、ああやはりすごいなあと思うし、まだこの句を怖く思えることが嬉しい。

最後にもう一度引く。
ともだちにならう蜜柑を剥いてあげる/喪字男


*1
「彼方からの手紙」は山田露結さんと宮本佳世乃さん発行のネットプリントで、2015年1月の9号で喪字男さんはゲストとして寄稿されたようです。
句の表記は喪字男さんのブログを参照しました。
http://mojolovich.blogspot.com/2015/01/?m=1

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