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映画感想:『JOKER』は泣けない男の悲劇であり、笑う道化の喜劇であり、歴史に残る善悪混沌の最高名作であった。(ネタバレあり)

 ありがとうホアキン・フェニックス。最高の「笑い」と「涙」と「ジョーカー」をありがとう。

『JOKER』を最速で見てきたので感想を書くよ。
多分文章が走りすぎてネタバレ全開になっちゃうかもしれないが、多分問題ない気がする。

この映画の本質は「映画」という音と映像と顔が、ある1人の孤独な男の顛末を描ききった映画だから、文章を読んだだけでは絶対に損をする作品になっている。まぁそういうわけだから気軽に読んでほしい。

ああ、先に評価を書いておこう。

悲惨な喜劇であり、滑稽な悲劇であり、名作。

この映画は完膚無きまでに名作であり、私の人生を変貌させる最高の映画であったと断言できる。
1人の孤独な男が悪を花開かせるまでの顛末を、丁寧に残酷に、それでいて完璧な説得力を供えて描ききった怪作。

「無敵の人」や「社会保障」そして「貧富の差」といった問題にも触り、ジョーカーという怪物の誕生に溶かし込んでしまった。


『JOKER』とはどういう作品?

『JOKER』とはどういう作品か知らない? よくぞこの記事を開いたな。簡潔に説明しておこう。

バットマンはおそらく誰もが聞き覚えがあるだろう。アメリカの混沌と暴力と退廃の都市ゴッサムシティを舞台として、ブルース・ウェインという男が蝙蝠の面相と衣装を身にまとい、たった1人で孤独に街に蔓延る悪に鉄槌を下す、DCコミックスのいわゆるアメコミ・ヒーロー作品だ。
つい一週間前にもクリストファー・ノーラン監督作品の『ダークナイト』も放映されたからそっちで大体よくわかるだろう。

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うん、これを見ればわかるだろう。この男こそが「ジョーカー」であり、今作の主人公だ。
『ダークナイト』ではヒース・レジャーが最高の邪悪の演技を披露してくれたが惜しくも彼が夭逝してしまったこともあり、今作でジョーカーを演じるのはホアキン・フェニックスだ。ちなみにこんな顔。

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メイクで顔がわからないだって?
とんでもない。これでいいんだ。
これこそがJOKERであるからね。では本題に入る前に本作のあらすじをちょちょっと書いていこう。
でもがっつり書いたしまったので、ネタバレを極力回避したい人は横目で読み飛ばそう。

ゴッサムシティに住むアーサー・フレックはコメディアン志望。雇われピエロとして安い賃金で働き母親と二人で貧しい暮らしをしている。彼には「突発的に大笑いをして、本人でも止められない脳の障害」があり、市の福祉サービスに通い薬を貰い、コメディアンフランクリン・マレーのTVショーを母と二人で見る鬱屈した毎日であった。
ある日同僚から38口径のリボルバー銃をもらったことにより、それを携帯していたアーサーはピエロの職を失ってしまう。失意からピエロの仮装をしたまま入った地下鉄で、笑いの発作を起こしたアーサーは三人の会社員に暴力を振るわれ、持っていた銃で殺害してしまう。しかし全速力で逃げたアーサーの心に訪れたのは幸福感であった。場末の舞台で一世一代のコメディを披露するほどに持ち直す。
殺された三人の会社員はゴッサムシティでも富裕層に位置するウェイン社のエリート社員たちであり、目撃されたピエロの仮面の殺人犯は「金持ちに立ち向かう貧者のヒーロー」として祭り上げられてしまう。ウェイン社社長で市長選候補を目論むトーマス・ウェインはこれに憂慮を示していた。
その一方で、アーサーの母であるペニー・フレックがトーマス・ウェインと恋仲であったことを示唆する手紙を書いていたことを、アーサーが知ってしまう。アーサーはウェイン家に訪問したり直接トーマスと対面するが「母親の妄想だ、イカれている」と取り合ってもらえない。「なぜみんな俺にひどいことをする」と訴えるアーサーだが、トーマスに殴られて一蹴される。這々の体でアーサーが家に帰ると、脳卒中を起こした母が病院に搬送されるところであった。
そしてその病室で、偶然にも録画されていたアーサー・フリックの一世一代のコメディがフランクリンのTVで紹介され、酷評される。
アーサーは真実を知るべくアーカム中央病院から母のカルテを奪い取る。アーカム中央病院は犯罪者や精神疾患の患者が多く搬送される病院であり、母も例外ではなかった。
トーマスの言う通り母はイカれていた。幼少期にアーサーは母から虐待とネグレクトを受け、頭部に重傷を与えられたのも母のせいであり、自身がウェインの息子ですらなく拾われた子であることを知る。信じていたものは全て間違いであり、間違いは正しい。アーサーは嗚咽のような笑いを一頻りあげた後、病室の母を殺害する。
運命の時が訪れる。日に日に混沌と暴力が悪化していくゴッサムシティ。先日の放映の反響により、アーサーはフランクリン・マレーのTVショーにゲストとして参加することになる。
アーサーは顔にピエロのメイクを施し、部屋に訪れた同僚を殺し、カラフルなスーツを来る。アーサーはついに「ジョーカー」になった。警察からの追手も騒乱を引き起こして返り討ちに遭わせる。
そしてついにフランクリン・マレーのTVショー。そこに冴えないピエロは存在せず、ジョーカーというカリスマが君臨していた。自らの三人の社員殺害を告白し「善悪は主観でしかない」という持論と、社会に対する怒りをぶちまけ、カメラの眼の前でフランクリンを射殺する。
これに蜂起するようにゴッサムシティのテロ攻撃は爆発する。ピエロの仮装をした者たちが怒りのままに街を破壊し、人々に危害を加える。ある金持ちの親子が暴動から逃げるように路地裏に入ったところを、1人の顔のないピエロが父と母を射殺してしまう。
1人残された子どもの名前を、ブルース・ウェインという。
パトカーに乗せられ逮捕されたジョーカーも、暴動によって逃れ、ピエロの民衆の前で踊り出す。口には鮮血で染めた笑顔を浮かべながら。

善悪は主観でしかない

本作のテーマはまさにこれであろう。

ある人にとっては悲劇であっても、それはある人にとっては喜劇でしかない。
またその逆も然りで、その価値観はまさに当人の主観に基づくものでしかない。

トーマス・ウェインは断じて悪人ではない。金持ちではあるが善良な市民であり、頭のおかしい息子に言いがかりをつけられただけだ。彼自身の主張も正しかった。しかし正しいからと言って命は守られず、暴徒の手によって理不尽に殺されてしまった。

フランクリン・マレーについてもやはり悪人とは言い切れないか、どうだろう? 彼はコメディアンであり、たまたま見つけた1人の男の醜態を笑いものにしようとした。笑いものにされた男からしてみれば悪であるが、実際のところそういうことをする人は悲しいかな「沢山いる」のである。
まさにお笑いの本質であり、人間の醜悪な一面だ。

ペニー・フリッツもどうだろうか。自己愛性人格障害などの精神病を抱え、養子として拾った子に虐待をした。紛れもない悪であるが、その末期は貧しい暮らしで救われない日々である。

では、ジョーカーはどうだろうか?
真面目に仕事に取り組んでいたら看板を盗まれて壊されて理不尽に暴力を受けた。
同僚からもらった銃を携帯してたら小児病棟で落としてしまいピエロをクビにされた。
失意のまま地下鉄に乗っていたら笑いの発作が起きて難癖つけられた三人の会社員に暴行を受けた。
自分の一世一代のコメディを有名なコメディアンのTVショーで酷評された。
信じていた母が嘘をつき、暴力を振るっていた。

あまりにも理不尽であり、あまりも許されないが、それでもこれの善悪を推し量ろうとするとあまりにも途方に暮れてしまう。
何よりも「彼」の視点で描かれた映画で、我々は否応がなしに彼に共感してしまう。
そこにこの映画の魂胆がある。

ジョーカーに心を投影してしまう罠

善悪は主観でしかないが、素晴らしい映画というのは主人公の主観に基づいて撮られるものである。
だからこの映画を見ると、どうしてもアーサー・フリックという孤独な男の心を追いかけるように見てしまう。

だから彼が理不尽に対して反撃をすると「やってはいけないことだ!」という嫌悪感と同時に「してやったな!ざまぁみろ!」という彼の行動を肯定できてしまうのである。
悪なのに、それを受け入れてしまう恐ろしさを秘めているのだ。

そしてこの映画が名作になったポイントが、顔だ。


彼は最初から「泣いて(笑って)いた」


泣き笑い、という言葉がある。笑っているのにあまりにおかしくて涙腺が緩んで涙が出てしまったりするアレだ。
アーサー・フリックは脳の障害により「突発的に笑ってしまう病気」になっているが、ホアキン・フェニックスの完璧な演技をよく見てほしい。

笑っているのではなく、泣いているのである。

彼の笑いはほぼ全てが「泣く」の代用である。だから聞いてて腹立たしくなるし、気持ちよくもない。だからみんな「なんだその顔は、何がおかしい」と返してくるし、逆に怒ってくる。
本人だって笑いたくて笑ってるんじゃないし、むしろ泣いていれば誰かに助けてもらえたかもしれない。しかしそうはならなかったのだ。

映画を見た人は思い出してほしい。
ジョーカーは涙を流すことはあっても、一度も、顔を歪めて大声で泣いたことがあったか?
ないのである。一度だって泣いてない。
それどころか、全ての場面の「笑い」を「泣き」に置換できてしまうのである。

最初の市の福祉サービスカウンセリングのとこでも彼は泣いてたし、嫌なことを見たりすると泣き出してしまう。しかし人はその彼の姿を見ると怒り出し、暴力を振るう。父親だと思う相手に母親を侮辱されて泣き出しても言われるセリフは「何がおかしい」である。そして殴られる。さらに母のカルテを見て自分の出自を知り、母の嘘を理解した時に彼は泣き出す。

泣くべき場面で泣くという人間として当たり前の動作を、彼は奪われていたのである。

想像をしてほしい。泣いてる子ども相手に怒りをぶつけたり殴ることが正しいと言えるか。外聞的にはそうとは言えないだろう。
しかし彼の場合はそうはならなかった。いくら泣いても周りには笑いとしか受け取られないから、一切の憐憫を向けられることもなく、社会から隔絶されていくのである。

そして悲しいかな。
まさにそれこそがジョーカーになる最大の要素であるという。

泣かない孤独な男は、笑う無敵の人になる

職もなく、社会保障もなく、家族もなく、失うものを何一つ持っていない無敵の人がまさしくジョーカーだ。
ホアキン・フェニックスの演じる彼がジョーカーに変貌してからは、みすぼらしく弱々しい痩せっぽちの男はまるで姿を変える。
道化師のようなカラフルなスーツを纏い、ラフフェイスのペイントを塗りたくり、軽やかに踊るように振る舞い、見るもの全ての目を奪う華麗さとカリスマを見せつける。

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物語の後半、このジョーカーの姿を見た時に、紛れもない悪のカリスマとその魅惑がそこには存在していた。
そしてそれは、コミックでもアニメでもなく、映画だからこそできた表現であった。

作中で彼が3人の殺人を行って公衆トイレに逃げ、鏡と向かい合いながら華麗なパントマイムのようなダンスを踊るシーンは、美しいよりも先に圧巻という感想が浮かぶ。
まるでそれが正しい形であるかのように、清らかな水の流れのように本当に美しく踊る。
「彼」に心境移入している観客はそれを見ると、解放感を味合わせられてしまう。
いわゆる「悪への誘い」である。

「彼の心」を思わせる重厚な音楽、絶望の闇に差し込む希望のような光の映像美、何よりもホアキン・フェニックスの魂が注ぎ込まれたジョーカーの顔。全てを体感するためには劇場に走るしかないぞ。
最もここまで読んでいた人に未視聴者がいるとは思わないが、それでも映画館で見に行こう。

善悪に溶け込まされる最高の名作だ。

閉幕

想像したけどこれ今じゃ書ききれんな。劇中で出てきた喜劇王チャップリンだとか、かのナチスとの重ね合わせとか、劇終盤での「真っ白なカウンセリングルーム」とか色々書きたいが一旦時間を置こう。

続編にてまたお会いしよう。とにかく見ようね『JOKER』。
あなたの人生に傷と涙と笑いを与える最高の名作だ。


ああ、最後に一言。

ベートーヴェンは一説によると死に際にこう言い残したらしい。

「諸君、喝采したまえ、喜劇は終わった」と。

耳が聞こえなくなりながらも歴史に残る名曲を作った男は、悲劇のような人生をこう語った。
彼の主観では、自身の人生はまさに喜劇だったのだろうとね。

善悪、喜劇悲劇など、全て主観でしかないのだ。

これは一つの悟りのような、ジョーカーから我々への啓示だと思うよ。
ではまた会おう。


追記。

続いてしまった。

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