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お節介は、思いやりの行き過ぎ?

「なんとかしたい」「自分にできることがあるなら、助けたい」「誰かの何かになれば」と思うことは、お節介なのか。

昔々、ある場所で育児の悩みなどを話し合いましょうという会があり、私は参加することになった。子供を持つ親全員が参加する行事で、私はこういうのが苦手だ。

私は今、私の生まれ育った土地とは違うところで生活している。私の生まれた地域は世話焼きのオンパレードで、キョロキョロしていると声をかけられるような地域だった。幼い頃は知らない人に声をかけられるのが苦手で、そうされて嫌そうな顔をすることさえも出来ない引っ込み思案だった。今も根っこの部分は変わっていないだろう。
だから集まりや会合などは不得手なのだろう。
ただ、高校を卒業して世界が広くなったのがきっかけで、案外嫌に思わなくなった。外からお誘いを受けることが多くなり、その経験が他人に対するオープンさを少し教えてくれた。

私の根っこはコレだから、話し合いの場では、自分がやってみてうまくいったことを話し、他の人が話すことには興味をもって聞く。
しかし、ある日の出来事で私の考え方に変化が生まれた。

ある参加者が「そんな簡単な話じゃない。うまく行かないから悩んでるのに。」と言った瞬間、私はキレてしまった。その場を今すぐ去りたくなるほど腹が立っていた。
世間話の会や井戸端会議ならそれもいいだろうが、ただ言われて集まった友人でもない人達と、何も得られない話し合いを1時間も続けるなんて、私には苦痛だ。

しかし、冷静になって考えてみると、相手が欲しかったのは「共感だけ」であり、それ以外はお節介だったのだ。
それを繊細に感じ取れなかった自分が、話し合いに誠意を出してしまったことを反省した。私は話し合いをするの意義を、皆が同じ様に考えていると勘違いしていたのだ。だから余計なお世話、お節介と受け取られてしまう。人とは必ず分かりあえるわけではないし、分かち合えるとも限らないのだと思った。

でも私は心の何処かで、そのお節介が人を救うこともあると信じている。
自分を信じてお節介を焼く人も、尊敬している。
ほんの少しの価値観のズレを許容して、人と対話し、すり合わせをして生きていく世の中が増えてほしいな、と思う。
私にはできるかどうかはわからないけれど。



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