私が小説を読むわけ
バイトの上司が「俺、本読めないんだよね。とくに小説」と言っていた。途中で絶対に飽きるし、そもそも必要性を感じないらしい。私は小説を少なからず読む人間だが、「必要性がない」のはまあ、わかる。
大学で文芸学科みたいなところに(一応)いるからか、周りに本を読む人はけっこういる。けれど、サークルやバイトなど一歩外に出ると、「なんで小説なんて読むの?」みたいな雰囲気がどことなく生まれるなー、と感じる。私が勝手に感じているだけかもしれない。
実際、私も小説は基本的にどうでもいいものだと思っている。生活にまるで必要ない、とるにたらないものもの。それでも、ごくたまに「なんだか、これはどうでもよくないぞ」と思える小説があって、そういうものを見つけるために小説を読んでいる気がする。
もう少し話を深めると、感情の発見のために小説を読んでいる。
「言葉は世界を見る特殊レンズで、それぞれ屈折率と拡大率が違う」と小池昌代が何かの本のはじまりに書いていた。見事な表現だ。本屋で読んだときにものすごく感動して、そこだけ咄嗟にメモしたのはいいものの、本のタイトルを忘れてしまった(言い訳をするとそのとき単行本を買えるほど所持金を持ち合わせていなかった。当時高校生だったし)。
私たちは日々生きていくなかで、「つらい」だとか「しんどい」だとか、何か言葉によって自分の考えや感情を可視化しているけれど、自分の持つ言葉だけでは心の中のものを顕在化できないときがある。うまく言葉に表せられないもやもやに苦しくなることもある。
そんなとき良い処方箋になるのが小説だったりするのだ。
例えば、森絵都の「つきのふね」という小説の冒頭。森絵都といえば今は大人向け(?)の作品を書いているが、デビュー当初は中高生向けのヤングアダルト小説を多く書いていた。「つきのふね」もその一つである。
中学生の頃、これを読んで「これだ!!」と思った。当時、クラスメイトが呟く愚痴も、教室で勝手に流される嘘八百の噂も、合唱コンクールの「ちょっと男子ー、練習しなよー」的なノリも、全部、めんどうくさくて吐き気がしていた。そうだ、植物になりたい、とこれを読んですぐさま思った。たしかに植物の生き方はシンプルだ、人間もあのくらい無駄のない生き方ができればいいのに、と。14歳の私が抱えていた悩みが、綺麗に言語化された瞬間だった。
もう一つ、川上未映子の「すべて真夜中の恋人たち」から引用を。
私は何かに落ち込んで精神的にしんどいとき、自己肯定感が低いのもあってか自分のことがどうでもよくなる。もともと朝ごはんを食べるのが苦手で、パンを食べているとうまく咀嚼できずに残してしまうことがたまにあるのだが、心に余裕がないときはとくにそうなる。そういうときは大体、お弁当の白米も食べるのがしんどかったりする。
それを、それが、「どうでもいいわたしがどうでもいいものを食べつづけて、さらにどうでもよくなってゆく感じ」と書かれていたのを読むと、あのしんどさはこれか……!!と感動したものだ。それとは別に、引用部分は語り手の主人公が恋心を自覚するような場面に当たるのだが、いざ自分が恋をしたらご飯が喉を通らなくなったこともあって、しばしばこの一節が頭の中によぎった。
「つきのふね」も「すべて真夜中の恋人たち」も、そのちょっとしたワンフレーズが、自分の心の奥底にあった感情を言語化してくれた小説だった。それが完璧なのかはわからない。けれど、もし二つの小説を読んでいなかったら、私はもやもやした感覚をもやもやしたまま、やり過ごしていた。言葉というレンズを通して、やっと可視化できた感情だった。
もちろん、こういう自分がハッ!とする文章に出会えることは少ない。それでも読んでいれば何かに出会える。そんな、自分の言語化できていない感情を獲得するために、私は小説を読んでいる。
(と、大層なことを書きつつ、面白い小説はただただ面白いから読んでいると思えるんだけどね。)