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写真の中の笑顔。

久しぶりに、被写体というものをやってみた。
いつものように、カメラに顔を向けてみた。
そうしたら、カメラマンの大学の後輩から「無理して笑わないでください。ありのままで」と言われた。
難しかった。

生まれたときからずっと写真を撮られていると、どうやら「レンズに向ける表情」というのが固まってきてしまっているらしい。小さいころのアルバムを見ても、小中高の卒業アルバムで自分の映る写真を探してみても、スマホを持ち始めた高校時代からの写真が入っているカメラロールをみても、自分はいつも同じ顔で笑っている。目がつぶれている。

特に、高校時代の写真はいつも同じ顔だった。
写真を撮ることが自分にとって日常的になったのは大学生になってからで、それまでは写真を撮るのは「特別な時」だった。インスタを高校の時にやらなかったせいもあるかもしれない。
そんな特別な時は、「嬉しいとき」だった。誕生日、学校行事、おいしいケーキ、ディズニー、演奏会、コンクール、某塾の有名講師との記念ショット、オープンキャンパス....。
日常の写真は一つもなかった。10キロを超える荷物とイーストボーイのなんちゃって制服とリボンでしばったポニーテール姿の自分はいなかった。

地元で一番の進学校に通っているんだから、地元を出ないといけないし出たい。そのためには勉強を優先したい。それに加えて部活を全力で頑張りたい。

こんな思いを抱えていたら、日常を撮る暇などなかった。日常は未来のために忙殺・忘却されるべきものとして存在していた。
日常を撮る、日常の中にあるものを撮るということは忙しい自分には無理だった。

だからこそ、暇があったコロナ禍の約2年間、日常というものを沢山撮りためた。
散歩道、空、本、こもれび、パソコンとコーヒー、足元...。
レンズという自分の目じゃないものが映し出す自分の日常をふと見つめる時間がこんなにいとおしいなんて思わなかった。

院を修了して社会人になったとき、「なんて怠惰な生活をしていたんだろう」と思うかもしれない。今だって、たまに国家取得が第一目的ゆえに必死で勉強している学部の友人が羨ましくなり、暇な自分を責めたくなる。
でも、自分の目の前に在る世界の美しさとはかなさと有限さを嚙みしめていたこの時間を忘れたくない。

余談。
写真で笑顔が多いのは、自分が女性ゆえのことともいえる。女性が社会の中で笑顔でいるから丸く収まる部分があるということは否めない。最近は、写真で無理して笑わないようにしている。ありのままで映るということよりも女性性を優先して自分は写真を撮ってもらっていたともいえるけど、その笑顔は忙しく表情が死んでいることが多かったであろうあの頃の数少ない「嬉しいとき」を明確に示している。
もっと先の未来で、あの頃のいつも同じ笑顔の写真をみたとき、自分はどうおもうだろうか。

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