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「二重のまち/交代地のうたを編む」



感じることとか思うことはたくさんあるけど、それを言葉にして声にして外に絞り出すのが難しいこと。それがうまくできないもどかしい気持ちがよくわかる。
震災から10年。
今でも当時のことは本当に鮮明に覚えていて、一瞬で10年前に連れて行かれた気分だった。
今まで10年間、震災当時のことを振り返って、しっかりと向き合って言葉にすることをしてこなかった。
今言葉にしなければと思わされたので、ここに残そうと思う。

当時小学5年生だった私は、父親の転勤でその日のちょうど2週間後、宮城県石巻市に転校する予定だった。父だけがその2週間前に先に石巻へ向かっていた。そして次の日の3月12日は、父が石巻から盛岡に帰ってくる予定だった。
その時期は卒業式練習で午前授業で家に帰り、ちょうど昼の連ドラをみている時だった。
いきなりテレビの画面いっぱいに現れた、"緊急地震速報"の黄色いテロップ。なになに、邪魔で見えないよ〜、と思った瞬間、いきなり家が大きく揺れだした。揺れてるのかなんなのかもわからないけど、とにかく心臓がどきどきして怖かった。外で遊んでいた弟と友達を助けなきゃ!と思い、必死で走って外に出た。お隣さんのお母さんと友達、弟とみんなで固まって揺れがおさまるのを待った。目の前にある大きな松の木が、ぼよんぼよんになっていた。あんな動きをする木をわたしは見たことがなかった。
それからお隣さんと一緒に、近くの学校に勤める母を探しに行き、お隣さんのおばあちゃん家に安否を確認しに行き、みんなで小学校の近くのお友達の家に行った。その日は電気も水道も止まってしまった。みんなで食べれそうな非常食や燃料などを持ち寄って、少しずつご飯を食べ、みんなで布団を並べて寝た。その日のうちに父に連絡がついたのかどうだったか曖昧な記憶だが、沿岸の方で大きな津波がきたことを知るのは少し後だった。
やっと父に連絡がついた時、父は「津波で屋上に孤立している」と言った。私たちは父が何を言っているのか全く分からなかった。
ようやくテレビがついて、津波の映像、沿岸の映像を見た時、誰も何も言わなかった。言えなかった。
何日後に父が帰ってこれるかなぁ?程度にしか思っていなかったのは私だけじゃなかったはず。
少し前まで住んでいた気仙沼の映像は見ていられなかった。アパートがあったまち、鹿折唐桑の名前がよく出てきた。近くに住んでいた友達は大丈夫だろうか。私が好きだった、海際の赤い橋の道がぐちゃぐちゃになっていた。

それからしばらくの間、お隣さんのおうちで共同生活させてもらっていた。お風呂に水をいっぱいため、スカスカのスーパーに買い出しに行き、ガソリンスタンドを巡る生活。次のご飯を何にするかも当たり前じゃない。
アイロンビーズで遊んで、余震のたびに外に出て。

父に会いに行けるようになったのは、何ヶ月後だったのかな?沢山の食料と生活用品の物資を車に詰め込み、3人で下道を通って石巻へと向かった。6、7時間くらいかかっただろうか。
内見の時に来た石巻のまち。家の周りは津波の被害はなかった。家に行くと、そこには知らない人が何人かいた。父の会社の、家が流されてしまった人たちだった。もう一度弟と2階の自分達の部屋になるはずだった場所に行った。私たちのベットと机だけが並べられた殺風景な部屋。なんとなく、ここが自分の部屋になることはないって気がした。

その年は石巻で年を越し、女川の初日の出を見た。海際に集まる人たちは、泣いていた。

途切れ途切れの記憶だけど、まだ鮮明に蘇ることがあるうちに掻き集めてお掃除してみた。当時の自分を少し遠くから見れるようにはなった。

何かの節目や分岐点に立つ度、もしも震災がなかったら今ここにはいないんだろうなと考えてしまう。でも、もしも震災がなかったら、なんて人生は存在しない。なんだかんだで15年くらい盛岡に住み続けた。自分にはずっと生まれ育った"地元"と呼べる場所がないと思っていた。でももう私の地元は盛岡で、岩手だ。ずっと大好きな場所。
ここで出会ったたくさんの人、思い出、全部がわたしでこれで良かったのだと思う。

これからも私は岩手で生きていく。

最後までお読みいただきありがとうございます。