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coronaになってrestart

コロナになりました。

前日まではなんともなかったのに、朝起きたら頭がぼーっとして喉が痛い。熱は37度と微熱だけど、これはまさか…と思って検査を受けた。20分ほどで結果が出る抗原検査は陰性。
やっぱりただの風邪だったかな?コロナが始まってから3年くらい?まともに風邪も引いていなかったのかと、その時気づいた。なかなかやるな、私。
しかし午後になって夜も更けてくるにつれて、体内の熱がぐんぐん上昇してきた。ついに39度まで到達し意識が朦朧としてきた頃、私はひたすら桃を選果して箱に詰める夢を見ていた。あれはちょうど2年前。祖父が亡くなった暑い夏に見ていた光景だ。


私はその夏、インターンで紫波に通っていた。毎日のように通っていたバイトを2週間ほど休んで、紫波町に住む面白い人たちに出会って充実した日々を過ごしていた。その日は、めちゃくちゃ憧れる暮らしをしている方にお会いし、紫波での暮らしがなんとなく自分の未来に重なって見えた、そんな日だった。
紫波から戻ってまっすぐバイトへ。たしか久しぶりのレジ締め。コロナが流行り始めていたこの頃は、夜になるとお客さんはほとんど来ない。店内をうろうろして、綺麗に畳まれたTシャツを広げては畳み直していた。
閉店30分前、そろそろレジ締めの準備をしようかと思ったその時、電話が鳴った。母からだった。
2週間ほど前に倒れて入院していた祖父が危篤状態だという。今晩が山場かもしれないから、今から青森に帰って会いに行こうと思うが行くか?という内容だった。

数時間後、私たちは弘前の病院の中。祖母と叔父に合流し、それまでは面会すらさせてもらえなかったはずの病室にすんなりと通してもらった。そこにいたのは私の知っている祖父の姿ではなかった。倒れてから数週間、点滴生活を送っていたせいで全身がパンパンに浮腫んでいるように見えた。わたしたちが祖父に対面したのはもう日を跨いで次の日になっていただろうか。少し容態が安定していたが、いつまた不安定になるか分からないということで、私たちは病院の待合室でしばらく待機することになった。いつまでここにいるのだろう。朝が来たら?この先どうなるのか誰にも分からないまま、自販機でジュースを買って一息ついた。「今晩が山場です」と言われたけれど、祖父はなんだかんだ耐えてもうすぐ朝になりそうだった。

この時期はちょうど桃の収穫時期。桃は朝のうちに収穫して出荷しなくてはいけない。朝になったら畑にお手伝いの人たちがやってくるということで、祖母と叔父と弟は一旦家に帰ることにした。私と母は病院で待機。何かあったらすぐに連絡することにして、二手に分かれて動き始めた。

待合室に取り残された母と私は、しばらく眠りにつくことにした。昨日から一睡もしていなかった。バタバタと動き回って、感情も昂り、なんだかとても長い夜だった。待合室の椅子を三つほどくっつけて横になると、すっと体が深く沈んでいくような感覚に陥り、夢を見かけた。祖母たちが病院を出て20分もたたない頃だった。その時、突然待合室のドアが開いたと思うと、看護師さんが私たちを呼んでいた。祖父の容態が急変したらしい。祖父は家に帰ろうとした祖母たちを呼び戻したのだろうか。ぼやぼやした頭を起こして、病室まで走っていく。そこにいた先生は私と母に、「最後の声をかけてあげてください」と言った。

「あ、最後なんだ」

その言葉を聞いた途端涙が溢れてきた。寝起きで頭が重いし、突然やってきた祖父との別れに気持ちが追いつかない…。パンパンに浮腫んだ祖父の手を握りしめ、なんて声をかけたかは、もはや覚えていない。知らせを聞いて急いで戻ってきた祖母と叔父と弟も、祖父に最後の別れを告げた。待合室に戻った私たちはどっと疲れていた。悲しみはもちろんあったが、今後のスケジュールで頭がいっぱいで、みんな祖父の死を実感できていなかった。

その後の1週間は本当に過酷で忙しすぎて、もうあまり覚えていない。祖父が亡くなっても、桃を収穫して出荷しなければただ腐らせて捨てるだけ。いろんな段取りや準備、お通夜、火葬、お葬式。これらの合間合間に、ちょうど集まった家族を総動員して私たちは桃をもいだ。

桃をもいで通夜。桃をもいで火葬。桃をもいで葬式。

葬式が終わるころには、みんな疲れといろんな感情とで、それなりにそれぞれがおかしくなっていたと思う。弟は夜に祖父が来たと言うし、普段全くイライラしない私は毎晩やってくる来客にイライラしてしまっていた。

でも今思うと、あの時の私たちには、もぐべき桃があってよかったのかもしれない。明け方4時から、私たちは毎日のように畑に出て、久しぶりに集まった家族や親戚とひたすら手を動かしていた。何気ない会話をしながら仕事をしていると、祖父が死んだことを忘れかけてしまう瞬間が何度かあった。悲しみに暮れてばかりもいられなかったのだ。これは、みんなを集めて桃を収穫させるため祖父が仕組んだ事なんじゃないかとさえ思えて、みんなで笑い合った。

もうひとつ。私には後悔していないことがある。祖父が倒れるちょうど2週間前、私たちは久しぶりに祖父母に会いにきていたのだ。コロナが流行り始め田舎は特によそからくるひとに対しての警戒心・排除感が強まってピリついていた時期だった。今はやめておいた方がいいのでは?という祖父母の意見を押し切って、私たちは青森に帰ってきた。ただし、家には寄らず畑だけで会うという条件で。直接畑で待ち合わせし、大して作業の手伝いもしていないと思うが、まあるく座っていっぷく(休憩)をした。弟がギターを持ってきていたので、畑の真ん中で弾き語りを始めた。歌うのが好きな祖母も一緒に歌い始めた。タバコをぷかぷかふかしながらその様子を横目に見ていた祖父が突然、「昔バンドでボーカルをやっていたことがある」という、祖母も母も初めて聞く話を話し始めた。どこまでほんとでどこからが嘘なのか分からない話だったが、話が上手で面白い祖父らしいエピソードだった。祖父との最後の記憶は、そんな何気なく、平和な、畑の中でのいっぷくだった。祖父が倒れたのはそのすぐ後。突然だった。あの時、祖父母の心配を押し切って無理やり会いに行った私たち。ぎりぎりまでいくか悩んでいたけれど、行かないという選択をしていたら後悔がひとつ残った気がする。

私自身、自分の人生に迷って、紫波を訪れていた時期の出来事だった。農業というやりたいことが何年も変わらずに私の中にあったが、周りの意見や環境に流されつつあった。正直この頃は、周りが言うようにとりあえず一度どこかに就職してみて、本当にやりたい農業はまた後回しにしてもいいのかなと考え始めていた。でも、祖父の死や紫波でのさまざまな出会いが重なり、生きている”今”、がむしゃらでもやりたいことをやっていくべきだと思い至った。単純な脳みそかもしれないが、それが私のやり方なんだと思う。

こんなことを書くつもりではなかったのだが。コロナで寝込んで桃の選果の夢を見て思い出した。この時期いろんなことがありすぎて、最近は記憶が薄れてきている。自分はあまり先のことを考えないタイプだから紫波にきたのもあまり考えずに来ちゃったと言うことが多いけど、実は色々感じたり考えたりしてたんだな自分。私は何か悩んだ時、結局原点に戻ってきてスッキリするということがよくある。紫波に出会って2年。あの頃に比べたらだいぶ生活も変わったけど、この”今”に慣れてきて忘れていた原点。日々を生きすぎていて、立ち止まったり振り返ることがなかったここ最近。コロナになって一度立ち止まり、振り返れた気がする。また忘れないように、忘れても戻れるように、ここに残しておく。

最後までお読みいただきありがとうございます。