アゲイン 高校の同級生が、ペットショップで売られていました。(40)草原は無限に続くように思えた

 チュン、チュン、と雀の鳴き声さえもやたらと大きく感じるのだから、田舎地方にいるというのは、すごいことだ。それに知らない鳥の鳴き声、それと、虫の鳴き声らしき音。首都や準首都地域とは、ほんとうに環境が違うのだと、僕はこのたった一泊二日でなんど思ったことだろうか。
 そんな異質な環境で、異質な夜を過ごした。そして、明けたのだ。
 僕たちは、出立するところだった。午前十時。……いまから帰っても、順調にいったとして、首都の西部地域にある自宅に着くころにはきっとまた日が暮れている。そして明日は、朝遅い職場とはいえ、僕は八時に起きて九時に家を出て、十時から働くのだ。勤勉に。
 僕は対面上、南美川さんのリードを犬にそうするように握っている。南美川さんは四つ足で立っているが、いまはそこまで嫌な思いをしていないらしい。ゆったりと金色の尻尾が揺れているから、そのことがわかる。

 一家はそろってにこにこ僕たちを――いや、人間である僕を、見送っている。
 冬樹さんも、奥さんも、昨晩の酔いなどきれいさっぱり忘れてしまったかのような、この広すぎる草原の赤い屋根の家のふさわしい、爽やかな笑みを浮かべていた。
 この家に到着したときとおなじで、――ポチの手綱は、奥さんが握っている。その髪の毛は今日もあまりにも長くボサボサで汚れていて、ポチの顔は、うかがえない。

 ……けっきょく、人犬を、どう人間に戻すかという具体的な情報は得られなかった。だが――僕は南美川さんをかならずやひとに戻すと、あらためて誓うことができた、昨晩の就寝前、田舎地方の明るすぎる月明かりにそう誓うことができたのだ。
 南美川さんはたしかに心が犬に振れてしまうこともある。僕のところに来てから半月ほどのあいだで、そういう夜を繰り返した。だが――比較するのはかわいそうかもしれないが、僕はポチという人犬と短い時間でもともに過ごして、わかった。
 たしかに素材は人間だ。だが、加工されてしまえば。人犬というのはここまで犬となるのだと。
 心が犬に振れるとかいうレベルの問題ではない。もう言葉をしゃべることもなく顔を上げることもなく、この世に生きた年齢としてはまだ三十年は経っていないだろうにもはや老犬のような佇まいで、絶望すらも感じさせない、ただ自然と、犬として、動物として、あるいは獣としてそこにいる存在を――僕は、知ってしまったから。
 南美川さんは、……きっととてもがんばった。そして、いまもとてもがんばっている。心まで犬になってしまえばよっぽど楽だと思ったろうに、それでも、人間の心をうしなわずにいる。おなじ檻にいるのにそのなかで慰めを与えようとするくらいには。それはたぶん、獣のできることではない、――人間のやることだ。
 南美川さんは犬の身体でもたしかに人間の心をもっているのだ。いまも。ずっと。つらくとも。南美川さんらしく――気丈に、あるいは激しくなにかに反発している強気な気持ちで。
 しかし、時間の問題だろう。時間を繰り返し、日を繰り返し、季節を繰り返したらあるいは、――南美川さんはもういつ心まで犬になってしまうか、わからない。そう――ポチのように。

 あらためて、決心できただけでもいい。それでいいと思った――戻ったら、また、調査のやりなおしだ。橘さんにお礼と報告の連絡をして……あと、あとは……あとは、わからない、けど――旧式図書館でも、あるいはやはり、Necoシステムであっても、僕は利用してやる、……僕の能力と特権がわずかばかりでもある領域なんて、プログラミングしか、ない。だったらそこからアプローチをする。なんでもする。なんでもやる。
 南美川さん。人間のあなたを、壊さないためならば。

 子どもたちが口々に礼を言ってくる。子どもは苦手なほうだが、この家の子どもたちは聡明で礼儀正しいので、僕もどうにか相手をすることができた。幼い姉妹は無邪気に、南美川さんの頭を撫でていた。南美川さんはぴくんと耳を尖らせたが、それだけだった。その耳もすぐにふにゃりと平常時に戻る。そこまで、嫌では、ないのだろう、……すくなくともいまは。
 夫婦も、うなずいていた。微笑ましいと感じているような顔をして。

 さて。頃合い、かな。

「……それでは、帰ります。お世話になりました。ありがとうございました……」

「――ねえ、来栖さん」

 意外なことに、奥さんが、僕の名前を呼んだ。笑顔をやめて――真面目な顔をして。
 気がつけば冬樹さんも真面目な顔をしている。……なんだ、なんだ。

「……主人と、昨晩も、すこしだけ、話し合いました」
「……なにを、ですか」
「貴方なら、貴方ならもしかしたら――私たちとおなじ失敗をしないでいてくれるかも」
「……え?」

 奥さんの目は、わずかに、潤んでいた。だが泣いたりはしなかった。子どもたちがふしぎそうに自分たちの母を見上げている――だからだろう。

 奥さんは、ポチの鎖をわざとらしくジャラリと鳴らした。

「……いえ。失敗では、ありませんでした。私たちにとっては――けど。けど」
「いいよ、呼世理(こより)」

 冬樹さんが、奥さんの肩をポンと叩いた。
 呼世理――奥さんの、ファーストネームだろう。
 ポチの名前がかつて千世理だったというから、たしかに姉妹らしい名前だ。

「僕はね。……僕たちはね。失敗だったなんて、思ってないよ。ああ、ほんとだとも。……犬にするしかなかったんだから。
 成功だよ。まったき成功だ。
 けど、それと同時に――その先の、それをもっと超える成功を得たいという悲しきおとなの性を、なあ、来栖くんはわかるかい?」

「……それは、僕が、南美川さんを、」

「ああ、ストップ。そんなことは僕たちにはわからないよ。だって僕たちは、ヒューマン・アニマル肯定論者だから。
 ヒューマン・アニマル制度を否定するような人間とは真っ向から対立するさ――だから、だからだよ。
 だからそれを見てみたいという、どうしようもないこの気持ちを、なあ、来栖くんは若いからわからないだろう。家庭もまだもっていないようだし」

「……わからない、と、言われてしまえば、僕には、わからないんだと、思います」

「はは。――若者らしいね。憎々しいほどだ――だから来栖くんいちどしか言わないからね、」

 冬樹刹那さんは、僕につかつかと歩み寄った。まさか、殴られるのか――僕はいじめを受けていたころの哀れな性で一歩あとずさりぎゅっと目をつむった。

 しかし、冬樹さんが僕の耳もとで囁いたのは、思いもよらない情報だった。

 住所――首都の、中心部分の。

 僕は、目を見開いた。
「……え?」
「いちどしか、言わない。そう言った。聞き取れなかったとか覚えられないとか、そういうクレームは、いっさい受け付けない。
 ……さあ、もう行きたまえ。キミにも仕事と生活があるのだろう」

「……え、あの、いまの、」

「いいからもう行きたまえ! キミには、仕事があるだろう!」
「……あなた。やめてください。でも、来栖さん――もう、行かれてくださいな。どうか。どうか。……振り向かずに」
 奥さんはふわっと哀しそうに笑って、

「……あ、」

 グイ、と僕の手にあるリードが、強い力で引っ張られた。
 南美川さんが、駆け出そうとしている。こんなにも強い力をもってして。こんな小さな犬の身体のどこからこんなパワーがあるのだって、くらいに。
 僕はそのまま立場逆転で引っ張られるかのようにして出発した――最後に一家を見たのは、だからほんとうに一瞬のことだった。

 冬樹さんのうつむき。そのかたわらの奥さんのエプロンの白。きょとんとしつつも、手を振る小さな子どもたち。姉妹。
 ……ポチの黒髪。

 それが、最後だった。

 振り返らない。――僕は振り返らなかった。
 ただ、無限とも思える草原を、四つ足で駆ける南美川さんにむしろ手のリードを引っ張られて、重い荷物を背負って、駆けていた。

 草原は無限に続くように思えた。

(第三章、おわり。第ゼロ章へ、つづく)

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