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私にとっての生きやすさは、だれかにとっての生きづらさだ。

 私は難病をみっつもっています。
 精神系と、おそらくは脳神経の不具合による視覚系と、女性特有のホルモン系。

 いずれも、「一般的な社会生活は諦めましょう」と専門医に言われたことがあります。「有効な治療法は確立されていません」とも。
 この病気はすべて、完治というものが定義上ありえない病気でした。つまり実態は、障害です。いちばんよい状態で、寛解、つまり日常生活や社会生活が送れるまでに症状がよくなっていること。

 私は現在このみっつの病気すべてが寛解状態です。
 難病みっつもってるなんて自分でもほんとかなー? と思うくらいには、すこやかな生活です。

 そして、現在、第四の難病の可能性に気づいております。

 うまく、眠れなくて。もう、中学生くらいのころから、ずっと。
 しかし、不眠や過眠ともどうも違う。
 床に入るのが、21時だろうが0時だろうが3時だろうが6時だろうが、夜が明けるくらいのタイミングでないと、どうしても眠りにつけない。21時から9時間もベッドで眠れない時間はもんのすごく苦痛でした。なのでこのごろはもうなにか割り切って、明け方就寝に生活リズムを固定していました。
 眠ってしまえば6時間から8時間程度の眠りで、質も悪くなく眠れる。のですが……

 やはり睡眠リズムが世間と6時間ずれているというのは、それはそれだけできついものです。
 しかも、自分自身の意思としては、世間とおなじリズムで暮らしたい。
 私は中高大と不登校を経験しましたが、もっともダイレクトな理由は「朝に起きれない」ということだったと思います。
 その影響で、「やる気がない」「怠け者」「社会を舐めてる」などのお説教をたくさんいただきましたが、そのすさまじいストレスは、もしかしたら二次的なものだったのかもしれません。

 理不尽です。だからそんな愚痴を、自分のなかで繰り返してきました。
 みんなとおなじペースで寝起きしたい。みんなとおなじふうに暮らしたい。みんな夜は0時くらいには寝つけるから私のつらさなんてわからないんだ、ずるい、ずるい。
 なんで私だけこんなにまぶたが重たくて、読書も執筆もろくにできないのか。視力があるということのありがたみをみな忘れているのではないか。私なんて、見えないのにこんなにがんばってる。毎月毎月倒れるほどの痛みがある。みんなあることだよとかゆって痛みだけで月に3日も4日もつぶれることを知らないんだ、ずるい、ずるい、私はこんなにつらいのに……と。

 その繰り返しのはてに、気づいたんです。

 たしかに、そうだ。
 私は、つらい。

 けど、私は、毎日ごはんをおいしく食べてる。自分で立って歩いて、好きなところにも行ってる。人間関係で悩まされることはほぼなく、快適な関係性やコミュニティをもたせてもらってる。お風呂に自分で入って気持ちいい時間を過ごせている。それに、死にたいと思わない。いま。

 私の当たり前は、だれかにとっての当たり前ではない。
 だれかが涙ぐむほどほしいなにかを、私はすでにあらゆる点でもっている。食事、歩くこと、人間関係、お風呂に入れること、メンタルのすこやかさ。きっと、ほかにも、たくさんのなにかを。

 そしてもちろん、だれかにとっての当たり前は、私にとっての当たり前ではない。
「みんな」が夜に眠れるその当たり前が、私は、涙ぐむほどほしいし、うらやましい。

 ……「つらいのはあなただけじゃなくて、みんなつらいんだから」っていう、あのことばね。私も多分に漏れず、暴力的なことばだと思っていました。
 でも、いまは、ちょっとだけ、考えかたが変わりました。

 あなたは、私は、だれかにとっての病人で障害者、かもしれない。
 けどそれと同時に、きっとだれかにとっての当たり前すぎる「健常者」なんだ、と。

 ご購入いただいて、ここまで読んでくださって、ほんとうにありがとうございます。
 その気づきというものは、きっと価値があると思って、試してみました。ので、とても、嬉しいです。
 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。ぺこり。

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