私たちは考え続けるエネルギーを維持できるか
「地域情報化」山田肇氏の講義。
TV統制というなら、地方局の独立性も問題だ
http://agora-web.jp/archives/2032044.html
を元ネタに「表現の自由」と「報道規制」について議論する。
放送規制の撤廃についてどう考えるか。
山田氏は市場原理と個人のモラルによって社会は自然的に悪くならないと考え、AI時代へ向けて情報を主体的に取得する能力の必要性を説き(情報活用力はAI時代に必要とされる共感力と創造力の源になる)、結果的に情報活用におけるポジティブな未来を想像している。
・・・本当に?
私の「情報リテラシーによる社会格差が広がるのでは」という問いに、山田氏は1)情報に対する主体的アプローチを推進する教育による能力向上・ボトムアップと、2)視聴者に支持される番組を制作・放映するTV局の市場原理によってその格差は是正されるという。
が、山田氏のいうように主体的に情報取得に取り組める人間が果たしてどれだけ存在し続けることができるか、というのが私の問いの根底にある。
私は情報リテラシーの格差→社会・経済格差の広がりは避けられないように思う。豊かな方に位置する人はきっと徹底的にストイックな生活にならざるをえないはずだ。
主体的に何かを獲得していこうとするには相当のエネルギーを必要とする。
それに耐えうるだけのエネルギーを創出し続けられる人がどれだけいるだろう。
(エネルギーをどのようにして自家発電し続けられるかは私の目下の注目事)
現にいま活字世代と言われる高齢者を見ていても、積極的に本を読もうとする人、テレビを自分の選択によって見ようとする人がどれだけいるか、という状況を見渡せば、二極化する世相が見て取れるように思う。
知りたいことに声一つかければすぐに答えてくれるAIがいて、自分の欲しいものを自動的に先回りして提供してくれるとなれば、多くの人はその利便性に依存することを拒否できないのではないか。
人の中で知的好奇心が絶えないものだとしても、知の欲求が一声で満たされる世の中にあって、私たちはそれについて思考し続けるほどストイックに、懐疑的にいることができるだろうか。
これまで自分で行う必要があった「調べて・比較検討して・決定する」というプロセスが必要なくなっても、私たちは主体的に考え続けることができるだろうか。
・・・まあ、まずは山田氏の著書「ドラえもん社会ワールド 情報に強くなろう」を読んでみて考えようかな。
https://www.amazon.co.jp/dp/4092591616
<本日の引っかかりネタ>
・「一見正しい理屈で作られているが、実際としてそうなっていない」
(地方独自の情報提供のためにTV局が地方局を作ってきたことについて)
・横浜市役所やさしい日本語課
・佐賀県佐賀大学医学部眼底写真のAIによる症例判別
・佐賀県高齢者の診療所と大病院間での症例情報共有システム
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