飲食恋愛小説_11

飲食恋愛小説集3「めぐり逢う恋人たち」 #cakesコンテスト

飲食恋愛小説集3は、飲食と共に、思い出を語るレストランが舞台です。映画に例えたら、ワンシーンワンカットの舞台劇のような飲食恋愛小説。どうぞご堪能あれ!

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★飲食恋愛小説集3「めぐり逢う恋人たち」

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 港の見える丘公園に佇んだ可穂は、真下にあるヒルサイドガーデンを眺めた。

 夜の帳に包まれた一軒家レストランから放たれる光の輪が眩しい。「シャトーのようだ」と感嘆した浩司の声が、まだ耳に残っている。別れてから5年も経つというのに、あの時の彼の表情もはっきりと覚えている。

 別れた男に会うなど、想像もしなかった。恋に身を焦がしたら、別れは引き裂かれるほど辛く痛いものだ。痛みを思い出したくないから、別れたら他人。これが可穂の恋の終わり方だった。だから5年前に別れた浩司からのメールは予想外だった。別れた男に気遣ってもらうほど、寂しい女なんかじゃない。当然のように無視した。

 ところが昨年秋の「被災地で復興ビジネスを興した」というメールに、思わず返信をしてしまってからは、年が明けても連絡が続いた。そして2月14日には「誕生日おめでとう」と直筆入りのバースデイカードが届く。サプライズだった。可穂は、カードを会社の机の引き出しの奥にそっとしまったまま、その夜も残業した。

 帰宅途中、最寄駅近くのスーパーに立ち寄り、バレンタインコーナーを通り過ぎようとして、ふと足が止まった。5年前に浩司に渡したベルギー産高級チョコが、群青色の包装紙のまま、そっくりそのままコーナーを飾っている。あの時は、銀座のデパ地下のプレミアム売り場から買ったというのに、今やスーパーで売っているのだ。恋そのものがすでに風化したのだと、可穂は悟った。

 翌日も夜のスーパーに立ち寄った。バレンタインチョコは翌日から安くなる。どのくらい値引きされるのか知りたくなったのも、マーケティング部署で培われた性かもしれない。

 だがバレンタインコーナーが、ホワイトディコーナーにすり替わっただけで、チョコは、同じ値段のままだった。スーパーのたくましい商魂に苦笑いしながら、可穂はほっと安堵して、一瞬何かがほぐれたのを感じた。


「寒い」

 身震いをしながら、可穂は港の見える丘公園から、ヒルサイドガーデンに続く階段に引き返した。階下には、一軒家をぐるりと囲むように煌々とした光の輪が広がっている。

 浩司がタクシーから飛び降り、猛スピードでヒルサイドガーデンの白い階段を駆け上がってくるのが見えた。

 最上階のガラス張りの個室に入るが、可穂がいないとわかるとすぐに飛び出した。周囲を眺めてから上を仰ぎ、公園に続く階段に佇む可穂の姿を捉えると、二段跳びで駆け上がってきた。

 「呼び出しておいて、1時間も待たせるなんて」

 春になりきれない夜空の下は、凍えるように寒い。可穂が身震いすると、荒い息のまま、浩司が手を取った。

「悪かった」

 指先からじわりとぬくもりが伝わる。

 5年前の誕生日に、箱根の温泉宿のほのぐらい明りの中で、浴衣の帯をこの手で解かされたことがよぎった。バレンタインチョコの包装と同じ色の帯だった。あの時、奥さんにどんな嘘をついてきたのだろうと思いながら、ふわりと身を任せた。


 レストランの個室で復興ビジネスの話を聞くために横浜までやって来たのに、浩司は昔話を蒸し返てばかりだった。

 しかも可穂の一言に対して、百倍の言葉が返ってくる。デザートと珈琲の後で、可穂はホットワインを頼んだ。ナプキンをテーブルに置き、部屋の隅にあるロングチェアへと移動した。足を延ばして、浩司の顔を覗き込む。

「旅行の翌日に奥さんが私に電話をかけてきたことが、別れの原因だと思っているのね。でも違うの」

 5年前の誕生日は土曜だった。午後から気温があがって汗ばむ陽気となり、鄙びた温泉宿に到着してから初めて、山奥から流れてくる冷気を感じた。

「箱根の旅行のこと、ここで決めたんだよな。5年前の正月明けに」

 可穂の話を遮るように、浩司はノスタルジィに浸っている。

 グラスに残っていたワインを一気に飲み干してから、さらに浩司はボトルに僅かに残っていたワインを注いで、これも飲みほした。沈黙が続いた。

 ウェイターが、可穂の手元にホットワインを届ける。シナモンの香りが重苦しい部屋にふわりと広がった。

「翌日のお昼過ぎに箱根の宿を出てから、レンタカーが突然パンクしたよね」

 すぐにレンタカー会社に対応を求めたが、暫く待たされ、別の車で都内に到着した時すでに日が暮れていた。

「浩司が公会堂に行こうと提案したわ」

 初めて知り合った公会堂へ向かった。当時二人が住んでいた地域では、大晦日の午後に第九を歌う企画が持ち上がり、即席の合唱団に、浩司も可穂も参加したのだ。11月から毎週日曜に練習が行われ、50人近い合唱団のほとんどが初対面だった。

 ところが二人は公演直前に到着してしまった。遅刻すまいとステージへと続く廊下を可穂が走っていると、猛スピードで浩司が追い越した。「待って」。

 浩司に続いて舞台が上がると、まさに幕が開こうとしていた。息を整え、それぞれのポジションに着いた。出だしを合わせて歌い始めると、会場いっぱいに歌声がわんわん響いた。エクスタシーが何度も重なっていくような錯覚が、独特な官能を高め、歌い終わってから、想像を超えた解放感が広がった。うっすらと汗をかきながら、周囲の人達に感謝の言葉をかけた。

 浩司と眼が合うと、笑いかけてくれた。胸がきゅんとなって、脳裏に浩司の笑顔が刻まれた。

「思い出の公会堂で、5年前に芝居の稽古をしていたカップルがいたよね」

 一筋の光が当たる舞台の中央で、20代半ばの男女が二人劇の稽古をしてい。それぞれの薬指にリングが光っている。夫婦なのだろう。

「奥さんがいるあなたとは、夫婦という芝居すらできない」

 5年前のあの公会堂で、浩司との未来はここで終わったのだと可穂は思った。

 過去の不明だったことが現在になってわかるように、未来のことも現在が物語ることがある。

 過去と現在、未来が順番にやってくるのではなく、突然時間が逆転したような瞬間を、可穂は感じたのだ。

「だから、あの公会堂で終わったの」

 鳥のように小さく呟いた可穂の前に、勢いよく席を立った浩司が近づいてきた。

「いや、未来はここから始まるんだ」

 可穂は首を振った。

「別れたのよ」

「オレの中で可穂は終わっていなかった。だから、妻とも別れた」

 思わずグラスを落としそうになった。

「離婚したの」

「そうだよ、3年前。あれ、俺、言わなかったっけ」

「どうして大事なことを教えてくれなかったの」

「そうか…可穂にとっても、大事なことだったんだな」

 予想外のことに言葉を失った可穂を抱きしめながら、浩司はジャケットのポケットから、小箱を取り出した。

 チョコと同じ群青色の包装紙だった。

解いてみると、光輝くリングが現れた。

ヒルサイドガーデンの光の輪のような。

                           (完)

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