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24年間の人生で初めて『自分の生き方は間違ってないのかも知れない。』と思えた小説

『何かの間違いで、ハズレの人生にいる。』

と、今までの自分の人生に対して、「心の根底ではそう思っていたのかも知れない。」と割と最近になってから初めて認知した。

菅田将暉さんの「まちがいさがし」の曲の歌詞のように潜在的には(無意識的に)思っていたと思う。

まちがいさがしの間違いの方に
生まれてきたような気でいたけど
まちがいさがしの正解の方じゃ
きっと出会えなかったと思う。

今までの自分の行動は、『ハズレの人生だと思いたくないから、がむしゃらに正解っぽい人生を作ろう。』と行動していたんじゃないかと今の自分は思う。

”正解”として過去の自分は行動していたんだけど、今の自分から見ればそれは”正解っぽいもの”でしかなく、”正解が何か”ということはわかっていない状態での行動であったと思う。

ただハズレであることを見て確認しないようにと、真実(弱み)から避け続けてきた人生だっただけなのかも知れない。

そもそも誰よりもハズレの方の人生だと思っているから、「正解っぽい人生にしよう。」と、”ハズレの方の人生だという思い込み”に逆らうような行動をしていたのだと思う。

ハズレの方の人生だと思うのは、生きる意味がわからなくなるとき。

ハズレだと思う瞬間が今まで生きてきてたくさんあって、生きる意味がわからなくなることが多くあった。

生きる意味が分からないなんて、社会性を持つ人間として、生物としても、てっきりハズレだと思っていたけど『マチネの終わりに』に出てくる洋子は、「今まで自分がハズレだと思い続けてきた感情を同じように感じてきた人物かもしれない...」と感じた。

・・・それは、こんなふたつの感情であり思い込みだった。この感情を感じる時は、この人生はハズレだと思うと同時に、生きる意味が分からなくなる瞬間だった。

『親に愛されていない。愛に値しない人間だ。』

『自分の一番理解して欲しい所を分かってくれる人は存在しない。』

私には、そういった感情を抱えた人物に見えた。そして、”この人生がハズレだと思わされる感情”が自分の抱えてきた感情と、とても重なり、彼女の感じてきた生きづらさや愛情の表現の仕方を自分に重ねてしまった

そして、”自分”というものが分からず、ジャーナリストになった彼女の生き様を表す言葉も大きく影響している。

(洋子)「わたしは、自分が何になりたいのか、ずっとわからなかった。よくある話だけど。ジャーナリストって、そういう人間に向いてると思う。世の中の色んな事件を取材して、色んな人に会って、話を聞くことができるでしょう?わたし個人は一生会えない人も、RFPの記者だって言えば取材に応じてくれるし、質問にも答えてくれる。」

しかし、分からないと認識していたからこそ、自分と真摯に向き合い、自分の人生に真剣に向き合っていた。この時点でも「自分と同じような人がいるんだ...。」と、そう思えただけで、孤独な過去と今の自分の心が救われた。

人間とは何か、愛とは何なのか、深く深く考え、行動していく様と自分自身との葛藤が描かれていた。
そして、その果てには誰ともわかり合えないと思いこんでいた感情を分かり合える人との出逢いもあるのだと知れたことは、私にとてつもない安心感を与えてくれたのだと思う。

仮に、洋子という人間がそのまま実在していなくとも、この小説を書いた平野さんが存在しているというだけで、心が救われた。

「未来は過去を変えられる。」

この言葉は、恐らく著者が最も伝えたかったことなんじゃないかと思う。蒔野がそのことを洋子に話すシーン。

(蒔野)「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」

洋子は、その後の人生の節々の局面でこの言葉を思い出すことになる。

そして私も、この小説との出逢いもまさに「未来は過去を変えられる。」という体験をした瞬間だったんじゃないかと思う。

『マチネの終わりに』に出逢う前の私は、「自分の誰とも分かり合えてこなかった気持ちを幾度となく救われる出逢いなんてない。」ときっと無意識的に思っていた。

『マチネの終わりに』に出逢ってからの私は、「自分の分かり合えてこれなかった気持ちが幾度となく救われる日も来るのかも知れない。」と少し思えた意識の変化を感じた。

・・・

そのくらい40歳の洋子と自分の哲学が今までにないくらいに重なった。だから、自分の未来が書かれてるかのような小説だった。

洋子と重ねられたのは、目では決して見えない潜在的な内なる感覚であった。その潜在的な感覚は、目には見えないので、気付く人なんて存在してるかどうかも一見は分からないのだが、その感覚は存在し、それを持つのもまた自分以外の何物でもなかった

モデルとなった人物はいるらしいのだが、この話自体は、完全にノンフィクションという訳ではないらしい。しかし、作者平野さんの思考の深さに圧巻する作品なのでそんなことが気にならないくらい自分の中には残る作品だった。

こんなに感銘を受けることは人生そう多くないと思ったので、とりあえず感想でも何でも良いから書き記しておきたい!という衝動に駆られてnoteに残した。

読んでくれてありがとう。ではまだ!

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