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パンの耳を巡る抗争劇

海辺で、パンの耳を空に向かって投げると、鳶が勢いよく飛んできて掻っ攫っていく。私たちの体の、ギリギリ真横を過ぎ去っていくのでとても怖い。

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私は毎朝作るサンドイッチの耳を、週末海に行って鳥たちにあげている。

大半のお客さんは、鳩や雀なのだけれど、パンの耳をちぎって撒き始めると、鴉や鳶などの強くて大きな鳥もやってくる。

雀はとても少数派だ。

大量にうごめく鳩の合間に、ちょこんとやってきてひと口ふた口つまんで飛び立っていく。長期滞在はしないが、スキをついてサッとパンくずを取っていく。

鳩は、自分の目の前に落ちたパンくずを、追ってひたすら歩き回る。いつまでもそこにいるし、パンくずがなくなっても、ずっとそこをウロウロと歩き回っている。

そして、誰かが飛ぶと一緒になって飛び立っていくのがお決まりのパターンである。仮にまだ目の前にパンくずがあっても、自分の回りの鳩が飛べば一緒に飛んでいく。集団行動の鳥である。

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鴉はとにかく単独行動。しかも、パンくずではなくて大きな形のあるパン耳を選んで咥える。それに、その場で食べておしまいではなく、いくつもいくつもパン耳を咥えて、テイクアウトしていくのだ。

そしてその鴉が飛び立つと、知らない別の鴉がやってきて、パン耳をたんまり咥えたカラスを威嚇して奪い取ろうとしたりする。そこでひと悶着起こるのをよく見届けている。

最後にやってくるのは、一番大きい体をした鳶である。鳶は、ずっと遠くから、私たちがパン耳を撒いている姿を観察していて、時間をかけて少しずつ少しずつ近づいてくる。

私たちはやがて、鳶が大きく上空をに旋回しているのに気づき、上にパン耳を投げる。すると鳶はしなやかに飛ぶ方向を変え、サーッと私たちの頭上数センチまで急降下。足でパン耳を器用にキャッチして、ものにしていくのだ。


この抗争劇が、私は人間模様と同じに思えて仕方がない。


目の前のパンを拾って食べる者。

誰かのスキをついてパン耳を奪う者。

周囲を威嚇したり、仲間と喧嘩しながらも大きいパン耳を捕獲しようとする者。

時間をかけて誘導し、人間が上空に自らパンを投げるまで待つ者。


だからって、どれが優れているとか、素晴らしいとかっていうわけじゃない。

鳩はとても活動範囲が狭いし、危険を冒してまで食べ物を獲得しようとはしないが、平和の象徴として広く知られている、馴染み深い鳥である。

そんな鳩の合間を縫ってくる雀だって、一家繁栄や家内安全の象徴とされる立派な鳥だ。何しろ可愛い。

鴉は雑食で疎ましがられることも多いし、不吉だとされることもある。しかし、よく調べてみると鴉を神として崇める神社が存在するし、魔法や魔力などの象徴とされるという話もある。

鳶は、どうだろうか。

この4種の中で言えば一番優雅で賢い鳥のように見えるが、その上には鷹や鷲など、もっともっと崇高で賢い鳥が控えているのだ。

“鳶が鷹を産む”

“鳶も居ずまいから鷹に見える”

こんなことわざもあるように、まだまだ上には上がいるということがよく分かる。狭い世界の中では鳶が優秀な鳥のように見えるが、広い世界を見渡してみれば、もっともっと賢く崇高な鳥がいるのだ。


私はパンを大きく放りながら、人間だって同じなんだろうと、心底思った。

どの職が優れている、どの地位を獲得すれば安泰などということはない。すべての人には、それぞれの役割がある。

世の中は、誰が劣っていて、誰が勝っているなんていう、そんな簡単な話ではない。鳥だって、ある神話では悪者扱いでも、別の国の神話では、神として崇められていたりするものだ。

人だって同じだろう。ある人にとっては大嫌いで顔も見たくない人も、きっと誰かの最愛の人だ。1つの価値観では計れない。自分が今大嫌いな人だって、誰かにとっては「なくてはならない存在」なのだと思ったら、その人を憎んで頭を抱える時間など、本当にもったいないことなのではないか。

どんな生き物も、たった一つの基準で生きているわけじゃないんだ。意識を持たないであろう植物だって、突然変異を起こして不思議な花を咲かせたり、突然枯れたりすることがある。

ならばこれだけ多様な情報や感情、価値観に触れている人間は、もっともっと多様性があっていい。

どれが優れているとか、どれが素晴らしいとか、そんなことは決められないんだ。鳩が鳩であるように、鳶が鳶であるように、私は私であればそれでいいのだ。

無邪気にパンを投げながら、私は毎週、自分の中で確認し続けるのである。





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