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お母さんいるけど、お母さんが欲しい


私は、幼少から思春期まで、母からの日常的な暴力を受けています。

精神科医には虐待と言われたけど、私はそれを心のどこかで否定しながら生きてきた。虐待って、たばこの火を押し付けたり、風呂に沈めたりする、いじめや拷問みたいなものだと思っていたから。

私が受けてきたものはしつけの一環であり、そもそも私が悪いことをしたときに、母が怒って殴ったり蹴ったりする、ただそれだけ。何もしていないのに、いきなり殴られたわけじゃない。食事を与えない、生活を整えないわけじゃない。単純に「私が悪かった」ということが、常に前提にありました。

ここ数日、また大きな虐待死事件があって、私のTwitterのTLにはその話題がたくさん出てきて、正直つらくなってしまいました。私もそれについて意見しようと思ったけど、震えたりドキドキしたりするばかりで、リプに対応できないと思ってツイートを消してしまった。

私の母は、生きています。まだ若いしとっても元気。親子には見られないくらい若々しい見た目をしていて、みんなからうらやましがられます。

でも、彼女は私のお母さんじゃない。

私は彼女をお母さんとして、頼ることができません。一度は絶縁状態だったものの、一度距離を戻すと再び、彼女の愚痴聞き役、励まし役、そしてカウンセラーのような役割にもなってしまいました。


以前、私の母が発達障害だという記事を書きました。

この時、私は「お母さんも、さぞかしつらかっただろう。」ということに気付き、世界がひっくり返り、少し自尊心を取り戻しました。

世の中には、根っからの悪人なんていなくて、みんなそれぞれ、日々の暮らしの苦悩の中で発散しきれない思いを、弱い立場の誰かにぶつけているんです。息子たちと一緒に、虫かごに虫を複数匹入れて飼育してしまったとき、弱いものが強いものに食い殺されるのを見ました。生き物は、誰か弱いものを犠牲にしないと、ストレスに耐えられないようにできているのだと、痛感したのを思い出したりして。


仕方なかったんだ。私は全て許して、すべての人を愛する…なんて、達観したようなことを言いました。

でも、それは、今度は私が「加害者」になったからだって、気付いてしまったのです。

私は息子たちを育てるのが、とても下手だと思っています。大きな声とか物音が苦手だし、思ったことをストレートに言うのも苦手。夫に対しても少し遠慮(心理学でいう転移)があって、思うような育児ができないことも多い。でも、自分自身もイライラするし、がまんしきれず溢れ出る感情もある。子供にとって、最善の親ではない。最善の親なんていない、完璧な親などいない。それを分かっているようで、本当には分からない。

その罪悪感を正当化するために

「私の母も大変だったよね。」

「子供を殴ったりしてしまう気持ち、分からなくもないよ」

という立ち位置に、逃げようとしたのです。

私は息子たちを叩いたことが過去に数回あります。でも、決して常習ではありません。9年育児してきて、2人合わせて片手で数えられる程度。今後もっと、叩くことに抵抗が出てくるように感じています。ただ、手さえあげないものの、態度や言葉は分からない。子供が私の対応にどう感じているかは、分からない。読めるようで、読めない。とても不安です。


でも、母のことを憎みながら生活するのがとても苦しくて疲れるので、この記事を書いたときはとても心が軽くなったような気がしました。もう私は、すべての人を愛せる。私は達観した、卓越した境涯にたどり着いたと思った。

でも、違った。私はまた新しい発見をしてしまった。

私は、母を母だと思わない代わりに、誰かを母だと思って生きているんです。

例えば、時にそれは夫であったり、親しい友人であったり。今で言うと、年上のライター仲間の人であったり。

私はお母さんが欲しいんです。

お母さんみたいに、私を

“かわいいね。がんばってるね。えらいね。すごいね。”

って褒めて、可愛がって、甘えさせてくれるお母さんが欲しい。私はその人に、無意識のうちに母親を投影して、精神的に近づきすぎてしまう。

でも、その人は私の母じゃないし、赤の他人、一個人。自由に発言したり、行動したりしているわけで。

すると私は、勝手な母親像をその人に求めて、怒り出す。

「あなたはそんなことする人じゃない」

「あなたはもっとこういう風にして!」

「あなたが悪い!私は正しい!」

こういう勝手な要望が、心の中に出てきてしまう。言わないけれど、心の中でずっと自分と議論している。私の母に相応しい、理想の人はこういう人だって、心の中でずっと熱弁している。でも言えないし、言ったら関係が壊れることも分かる。

だからいつも、女性との関係、他人との距離感がうまくいかないんだって、少し分かったような気がしています。


この記事で書いた人は、紛れもなく自分の母をを投影しすぎていました。この記事に出てくる知代さんは、母によく似た性格で、誕生日も母と同じ日だった。もう、母のようにしか思えなかった。


親の愛に飢えた人は、それを違う誰かに求めようとします。


恋人や配偶者。

友達、そして子供。


私の母も、祖母に厳しく育てられ、体罰を受けて育っています。

母の場合、娘である私を母親として頼って生きていたんだろうなって、今なら分かります。

思春期の娘が親に八つ当たりしてキレるような、感情の爆発。

私はそれを受け入れて、母の望むように行動します。子供なので、そうするしかないというだけなんだけど。

誰しも、お母さんが欲しい。

無条件で受け入れてくれるお母さんが欲しいんです。私のように、実際に母は存在しているけど、母として頼れない人もいます。そして、すでに他界していて、頼る人がいない人もいます。元々、お母さんを知らない人もいます。

状況は違いますが、私はみんな同じくらい孤独だと思うのです。誰だってみんな、お母さんが恋しい。お父さんでもいいけど、やっぱりお母さんの愛情って格別なんです。生物学的にそうなっているような気がします。誰かに甘えたり、感情を露わにしたり、話を聞いてもらったりしたいんです。でも、それができない人が世の中には多すぎる。お母さんの愛が、全然足りていない。

お母さんの愛が足りない理由は、日本中のお母さんが苦しいから。しんどいから。虐待を防ぐって、果てしなく遠い道のりだって、突き付けられるような気がして、ニュースから目を覆いたくなる。


いつか、お母さんの愛がなくても、自分で歩けるようになりたい。お母さんが欲しいなんて、思わなくなりたい。

誰かに甘えて、思い切り泣ける人が、もっともっと増えたらいいのにな。

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