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自己紹介Vol.6~未来が見えない日々~

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 慣れ親しんだ故郷の四国を離れて、誰一人頼る人のいない九州へ。吉方位への転居を進めてくれた占い師さんに「引っ越すことで運気は上がるけど、その前に一旦ものすごく大変な目にあうよ。」と予言されていて、まさしくわたしが移り住んだ大分ではほぼ苦難しかなかった・・・。でも大好きな温泉、それもとても良質で安い温泉がたくさんあって、わたしにとってたまの温泉めぐりが唯一の心身の癒しになっていた。

 なんだかんだありながらもやっと大分市内で家を借りられたけど、最低賃金(当時700円以下)で毎日収穫量によって労働時間が変わる野菜の出荷手伝いしか職にありつけなくて。希望の接客販売は40代というだけで面接すら受けさせてもらえなかった。ほかに採用の連絡もらった別の職種は面接で話聞いた時点でどれも明らかなブラックでこちらから辞退。野菜の出荷手伝いとのかけもち仕事も探したけど、なかなか折り合いがつかず。

 自分の稼ぎだけではどうにも暮らしていけなかったから、実家の母に仕送りしてもらってた。40代になってまで自分のわがままな生き方のせいで年老いた母に迷惑をかけて・・・。ずっと自慢の姉としてわたしを慕ってくれていた弟にも会わせる顔がなかった。本当は好きな野球で仕事に就きたかったのに、スポーツ推薦で入学した大学を中退し、長男として実家の会社を継いでくれて。弟に不自由な思いをさせながら、自由奔放に生きている姉のわたし。でも生き方自体は自由でも、経済的にも社会的にもとても不自由だった。

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 戦後乳母だった祖母にひきとられ、兄姉と生き別れた父。貧乏で中学を中退して働き、母と結婚して乳飲み子を抱えて6畳一間のアパートで暮らしながら、一念発起して土建業で起業。やがて生コン会社を営むようになり、生活が安定。お金と学歴がなくてとても苦労した父は、我が子に同じ思いをさせるまいと、母と従業員たちとともに日夜お金を稼いでくれた。その結果、世の中的にはお金持ちと呼ばれるようになり、わたしたち子どもは何不自由なく育った。そして高学歴な生き方をわたしに望んだ父は、中学校から高知で一番の進学校に行かせて医者を目指させた。

 こどもの頃は経済的にはかなり自由だったけれど、精神的にはものすごく不自由だったなあ・・・。作家か英語の先生になりたいと泣いて頼んだのに、医者にならないのならこの家を出ていけとまで言われて。未来を医者一本に制限され、能力が伴わないわたしは2年間の浪人生活を強いられ。結局は「治療から予防へ」という言葉との出会いで医者ではなく管理栄養士の道を選ぶんだけど。

 獲得と喪失、自由と不自由のはざまで揺れ動く人生。わたし、いったい何のために生まれてきたんだろう・・・?

 ・・・結局まったく未来が見えなかった大分での生活には半年で別れを告げ、地域おこし協力隊という仕事を得て、今度は本州・岡山へと移住することになるのだった。

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