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「五戒」の「人に親切に」について

レイキの「五戒」の本文にある5つの戒めの最後、5つ目は「人に親切に」です。
「一日一善」という標語がありましたが、まるで道徳のお題目のようなこの「人に親切に」には、どのような思いが込められているのでしょうか?

不親切は心配から生まれる

この「人に親切に」することは、単なる道徳的なお題目ではありません。
ただ単に、親切を行うという行動指針ではないのです。
他の戒めと同様に、本当にそのような自分になることが重要です。

前に「五戒」の「心配すな」について書いた時、「神との対話」から次のような引用をしていました。

「心配、憎悪、不安は--さらに、これから生まれる気がかり、苦々しさ、短気、貪欲、不親切、批判、非難なども--すべて、細胞レベルで身体を攻撃する。そうなったら健康を保つことは不可能だ。」
(p.255)

つまり、「不親切」という態度は、「心配(不安)」から生じているということです。
このことから言えるのは、2つ目の「心配すな」を実践することなしに、「人に親切に」は実践できないということです。

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たとえば、通勤途中で体調が悪くて道路にうずくまっている人と出会ったとしましょう。
その時、すぐに駆け寄って助けようとしてあげられるでしょうか?

おそらく、いろいろな考えが頭の中を駆け巡ると思います。
「どうしたんだろう? まあでも、きっとすぐに良くなるに違いない。(ただそう感じたというだけで)」
「私が行っても、何もできないしなぁ。きっと看護師さんとかが通りがかって対応してくれるさ。」
「今朝は、どうしても遅れられない会議があるんだよな。時間に余裕があったら、面倒を見てあげるんだけど。」

これらの「すぐに駆け寄って助けようとしない」理由(言い訳)は、なぜ出てきたのでしょう?
それは、心の中に無意識に沸き起こった「心配(不安)」です。

自分の中の「心配(不安)」が原因で、自分らしく行動できなかったのです。
本当なら、すぐに駆け寄って助けてあげたい。そういう親切心を持っているのに、「心配(不安)」が打ち消すのです。

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たとえば、周りに誰もいなくて、仕方なく助けてあげたとしましょう。
しかし、そこに時間を取られてしまったので、大事な会議に遅刻しました。
上司からは叱責されてしまいました。
そんな時、どう考えるでしょうか?

「あ~ツイてないなぁ。だいたい、あんな所でうずくまっているなよ。お陰で怒られちゃったじゃないか。」
「いいことしたのに、何で怒るかなぁ。なんてわからず屋なんだ!こんな会社、働くのが嫌になっちゃうよ。」

せっかく親切という行為をしたのですが、心には不平不満が渦巻きます。
「五戒」の「人に親切に」が求めているものは、このような不完全な親切ではありません。
単に親切な行為をするだけでなく、心まで本当に親切になっていなければならないのです。

「小さな親切、大きなお世話」ということ

こういう流行語がありましたね。
親切にされることは必ずしもありがたいことではなく、迷惑なこともあるのです。

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たとえばよくあるのが、電車内で席を譲る場合です。
目の前に老人が立ったので、すぐに席を譲ろうとしたら、「わしはそんな老いぼれではない!」と怒鳴られたというような話です。

この問題は、とても大きな示唆を含んでいます。
それは、考え方(価値観)は人それぞれだ、ということです。
ある人がそれを親切(良いこと)と考えていても、他の人は必ずしもそうは思っていません。
むしろ逆に、迷惑(悪いこと)と考えていることがあるのです。

そのことからすると、いくら自分が親切だと思って実行しても、そのまま親切にはなりません。
相手には相手の基準があるのですから。

まずは、他人には他人の考え方(価値観)があるということを認める必要があります。
他人がどう考えるかは、他人の自由なのですから。
その上で、その人が親切だと思うことをしてあげることです。それが本当の親切なのです。

この時、次のように反論する人がいます。
「いや、そうは言っても常識的に老人かどうかは判断できるでしょ。それなのに強がって、席を譲られても受けないとか、おかしいんじゃないの?」
このように「常識的に」とか「一般的に」「普通は」などと、大衆を味方に付けたような論理で反論する人は、ことの本質がわかっていないのです。

繰り返しますが、人がどう考えるかは、その人の自由です。
そして考え方(価値観)は人それぞれです。

このことを、昔の日本人はよくわかっていました。
ですから、「盗人にも三分の理」と言いました。
犯罪を犯す人であっても、その人にはそうせざるを得なかった正当な理由(考え方)があったということです。
それを認めていたのですね。

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「神との対話②」では、次のように言っています。

「「正邪」に対するひとの考え方は、文化によって、時代によって、宗教によって、地域によって、……それどころか家庭によって、ひとりひとりの個人によって……いくらでも変わるし、変わってきたと言えばいい。」(p.61)

また、「神との対話」でもこう言っています。

「「正しい」とか「間違っている」とかは、ものごとの本質ではなく、個人の主観的な判断だ。その主観的な判断によって、あなたは自らを創り出す。個人的な価値観によって、あなたは自分が何者であるかを決定し、実証する。その判断をくだせるように、いまのような世界が存在している。」(p.70)

この観点を持っていなければ、他人に対して本当の意味での親切をすることはできません。
自分の考え方(価値観)を押し付けるからです。
相手が拒否したり感謝しなかったら、腹を立てたり不満に思います。
それは、本当の意味での親切ではないのです。

本当の「人に親切に」を実践する

これまで見てきたように、本当の意味での「人に親切に」を実践するには、2つの重要なポイントがありました。

1つは、「心配(不安)」をしないことです。
先ほどの例では、会議に遅れても「大丈夫」と思えていたら、自分らしく余裕を持って助けてあげられたでしょう。
上司から叱責されたとしても、それでも自分は自分らしく生きられたことを喜んでいられると思います。

もう1つは、考え方(価値観)は人それぞれだということです。
自分が親切と思うことが、必ずしも相手も同じとは限りません。
先ほどの例では、老人に席を譲ろうとして断られても、「そうですか、失礼しました」と穏やかに引き下がることができるはずです。

多くの場合で、まず相手に尋ねるようになるでしょう。
自分にはこれこれのことができるが、あなたは何をしてほしいですか、と。
相手がしてほしいことを、してほしいようにしてあげる。それが、本当の親切なのです。

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