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真実の「愛」とは何か?

前回の「魂は愛を目指している」で、魂が体験したいと目指している究極の目標は「愛」だと書きました。
では、「愛」って何でしょうか?

そう問われると、急に答えるのが難しくなるのが「愛」です。
普段は、「本当に愛してるの!?」と相手を問い詰めたり、「あなたのこと、愛しているわ」などと甘く囁いたりするのに。
何となくわかったようでわからない「愛」について、考えてみたいと思います。

嫉妬するのは愛か?

「愛」と言えば、まず思い浮かべるのは男女の愛です。
最近は、男女の関係ばかりでもないことが明らかになっているので、パートナーとの愛とか、恋愛と呼んだ方が正確かもしれませんけどね。

この「愛」では、1対1でなければならないという不文律が広く広まっており、その「愛」を他に与えたとみなされると「浮気」とされ、それを「嫉妬」されるという現象があります。
あえてややこしい書き方をしましたが、それは、そういうことが当たり前だと感じている人々に、立ち止まって考えてみてもらいたかったからです。

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そもそもこの「愛」は、1対1でなければならないのでしょうか?
もしそうだとすれば、なぜそうでなければならないと言えるのでしょうか?

この問いに、おそらく明確な回答ができる人はほとんどいないでしょう。
世界には、一夫一婦制でない国や民族は多数あります。
また、理論的に答えようとしても、聖書を持ち出して人類の始祖はアダムとイヴで、1対1だったと言うくらいのものでしょう。

あるいは、生殖をするのは雄雌一対だからという、生物学的な理由を持ち出すかもしれません。
しかしそれは、生殖時に一対というだけで、それ以外で一対ということの証明にはなりません。
もし生物学的に言うなら、性行為をする時、その瞬間は一対だとしても、次の瞬間には、また別の個体と性行為をするのは自然だ、ということになりかねません。

私たちが当たり前のように感じているその価値観が、何かからの、誰かからの刷り込みではないか、と疑って見る必要がある。私は、そう思うのです。

そこで、まずは秘教的なトルテックのナワール(シャーマン)となったドン・ミゲル・ルイス氏「愛の選択」から引用しましょう。
「愛を信じなかった男」のたとえ話があって、その男のセリフです。

「うーむ、もしかして彼女に抱くこの思いは愛なのかもしれない。しかし、これは今まで感じたものとはまるで違う。これは詩人が言うものとも違うし、宗教が説くものとも違う。なぜなら、私は彼女に対する責任などないからだ。私は彼女から何も奪いはしない。私は彼女に面倒を見てもらう必要もない。私は自分の困難を彼女のせいにしたり、自分のごたごたを彼女に持ち込む必要もないのだ。私たちは最高の時を共に過ごしている。お互いに楽しんでいる。私は彼女の考え方、感じ方を尊重している。彼女は私の邪魔などしない。まったく私の気に障らないのだ。彼女が他の人たちといるときも私は嫉妬心を抱かない。彼女が他の人たちとうまくいっても、妬みはしないのだ。もしかすると愛は確かに存在するのだが、しかしそれはみんなが愛だと思っているものとは違うのかもしれない」(p.45)

ルイス氏は、この物語を通じて、私たちがこれまで思ってきた嫉妬をするような愛は、本当の愛ではないということを示しています。

では、ルイス氏が考える本当の愛とは、どのようなものでしょうか?
それを次のように語っています。

「愛には義務がない。恐れは義務だらけである。恐れの道では、私たちが何をしようと、それはせねばならないからであり、そしてまた他人にも同じことを期待する。なぜなら、彼らもそうせねばならないからである。私たちには義務があるのだが、そうせねばならないとなると、私たちはすぐさまそれに抵抗する。抵抗すればするほど、私たちはますます苦しくなる。遅かれ早かれ、私たちは自分の義務から逃げ出そうとするようになる。一方、愛には抵抗がない。私たちが何をしようと、それはそうしたいからである。それは喜びとなる。ゲームのように、私たちはそれを楽しむのだ。」(p.52)

他にも、以下のうようなことも書かれています。ポイントだけの抜粋です。

「愛には期待がない。恐れは期待でいっぱいだ。」(p.52)
「愛は無条件だ。恐れは条件だらけである。」(p.56)

ルイス氏は、本当の愛なら嫉妬はしないと言います。
なぜなら、相手に対する義務がないし、相手への期待もないからです。
つまり、相手がどうであるかなど何ら条件をつけないからです。

愛は無条件ということ

「愛は無条件」だとか「無条件の愛」という言葉を、よく聞かれると思います。
キリスト教的な愛、あるいは神の愛というイメージかもしれません。
人間の愛では、親が子に対する愛が近いという考え方もあります。
親の愛アガペー男女の愛エロスと分類する人もいますね。

しかし、先ほど見てきたように、恋愛であっても本来は無条件の愛なのだ、という見方もあるのです。
親の愛だけの専売特許ではないということです。

では、無条件の愛というのは、いったいどういうことでしょうか?

「親の心子知らず」と言われるように、親がどれほど愛をもって面倒を見ても、子どもはまるで1人で育ったかのように親をないがしろにする。
そんなふうにないがしろにされても、やはり親は子がかわいいから、愛そうとします。
こういうのを、純粋な親の愛と呼ぶようです。
そして、それが神の愛に近いものであり、アガペーと呼ばれるものであるのだと。

たしかにそういう見方もありますが、無条件でない愛というのは、本当に愛と呼べるものなのでしょうか?
もちろん広い意味で言えば、「すべてが愛」という言い方もあります。
ここでは、「本当の愛」とか「純粋な愛」という意味で、「愛」という言葉を使いますね。

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親が子に、「勉強しなさい!」と口うるさく言います。
「あなたの為を思って言っているのよ!」と怒る親もいます。
これは、愛でしょうか?

心理学者のアドラーを研究しておられる岸見一郎さんは、「子どもをのばすアドラーの言葉 子育ての勇気」の中でこう言っています。

「「あなたのためにいっている」というようなことを親はいったりしますが、多くの場合、愛情という名に隠された支配でしかありません。
 受験についていえば、自分で進路を選び、その上で失敗したとしても、その失敗を通じて学べることは必ずあるはずです。もちろん、首尾よく合格するにこしたことはありませんが、親がこれくらいの覚悟をしていれば、子どもは気が楽になるでしょう。」(p.33)

上記で紹介したルイス氏も指摘しているように、親の動機が「恐れ(不安)」なのです。
アドラー心理学では「課題の分離」と言って、相手の課題と自分の課題を明確に切り分けます。
つまり、相手に依存しないことです。執着しないことです。相手がどうであれ、自分は自分という態度をとることです。
そのことを、同じ岸見氏の「幸せになる勇気」では、こう言っています。

「課題を分離するのです。愛することは、あなたの課題です。しかし、相手があなたの愛にどう応えるか。これは他者の課題であって、あなたにコントロールできるものではありません。あなたにできることは、課題を分離し、ただ自分から先に愛すること、それだけです。」(p.259)

「神との対話③」では、本当の愛かどうかを判断する基準を以下のように言っています。

「これは、愛の最も確かな物差しだ。あなたのために、あなたの望みどおりになるようにと願う。そのとき、わたしは真にあなたを愛している。あなたのために、わたしの望みどおりになるようにと願うなら、わたしはあなたを通して自分を愛していることになる。」(p.24)

相手が子どもであろうとパートナーであろうと関係なく、自分はただ愛するだけであり、相手がどうするかは相手の自由だという態度をとること。それが無条件の愛であり、本当の愛なのです。

愛とは何か?

では、そういう「愛」というのは、いったい何なのでしょうか?
「神との対話③」では、「愛」についてこのように言っています。

「愛とは、無制限なものだ。はじまりもなければ終わりもない。以前も以後もない。だから、愛はつねにある。つねに現実だ。」(p.255)
「愛が無制限で、そしてつねにあるなら、愛は……自由だ。愛は完璧な自由なのだよ。
ひとはつねに愛し、愛されたいと願っている。そうだろう。つねに、愛が無制限であってほしいと願っている。そして、それを自由に表現したいと願っている。あなたがたは愛の経験のすべてで、自由と無制限と永遠を求める。いつも実現するとはかぎらないが、求めてはいる。愛とはそういうもので、ひとは心の奥底ではそれを知っているから求める。なぜ知っているか。あなたがたは愛であり、愛の表現を通して、ほんとうの自分を知り、経験するからだよ。
あなたがたは、生を表現する生であり、愛を表現する愛であり、神を表現する神だ。
だから、これはみんな同義語だよ。同じものだと考えればいい。
神--生命--愛--無制限--永遠--自由
このどれにもあたらないものは、ほかのどれでもない。」(p.255 - 256)

ちょっと詩的な表現でわかりづらいかもしれませんが、要は、「愛」とは「神」という存在そのものなのです。
何かの概念として考えられている「生命」「無制限」「永遠」「自由」も、同義語だと言っています。

私は、これらは「神(=存在のすべて)」そのものであると同時に、神の本質的な性質を語っていると考えています。
考えてみれば、「存在のすべて」という言い方も、その性質を語っているだけです。

相対的な世界では対立する概念がありますが、絶対的な世界においては、その概念すらありえないものなのです。

たとえば、「永遠」という概念は、時間があるから生じます。
しかし絶対的な世界には時間はないので、そもそも「永遠」という概念が存在しません。
これはつまり、絶対的な世界のことを相対的な世界の概念で表現しただけなのです。

それと同様に、「愛」という概念は、愛でないものが存在する(と相対世界では考えられる)から生じるものです。
絶対的な世界には「愛」の対立概念は存在しないので、「愛」もまた概念として存在しないのです。

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この「愛」という概念を端的に説明した文が、同じ「神との対話」シリーズの「神とひとつになること」の中にありますので紹介しましょう。

「愛は自由であることをいつも覚えていなさい。愛の定義にほかの言葉はいらない。愛を理解するのにほかの考えはいらない。愛を表現するのにほかの行動はいらない。
  愛の真の定義を求める、あなたの旅は終わった。あとは愛の贈り物を、自分とひとに与えることができるかどうかだけだ。わたしはあなたにこの贈り物を与えた。
 愛を表現するすべてのシステム、合意、決定、選択は、神を表現している。神は自由であり、自由は愛の表現だから。」(p.226)

愛とは自由です。
相手を自由にさせること、自分も自由になること。
ですから、愛は無条件です。そして、相手を解き放ちます。

その思いや行為が自由かどうかを自問すれば、自分が愛にとどまっているかどうかがわかります。
人間の本性である自由であることが、愛そのものなのです。

愛の対極は不安

先ほど、「愛」という概念は絶対的な世界では存在しないということを書きました。
すべてが「愛」であるから、概念としての「愛」が存在しないのです。
概念としての「愛」が生まれたのは、相対的な3次元世界においてで、それは「愛」の対極が存在することによって可能になりました。

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その「愛」の対極が「不安」と呼ばれるものです。
そのことを、「神との対話」ではこう言っています。

「深く探ってみれば、人間の行動には二つの動機しかない。不安か、愛か。
じつは、感情の源もこの二つだけだ。魂の言語にはこの二つの言葉しかない。この二つはわたしが宇宙を創造し、あなたがたが住む世界を創造したときに生み出された二つの極なのだ。
これらが「相対性」というシステムを可能にする二点、アルファでありオメガだ。この二点、ものごとに対するこの二つの思考がなければ、ほかの思考は存在しえない。
ひとの思考も行動もすべて、愛か不安か、どちらかを根拠としている。ほかの考えはすべて、この二つから派生したものだ。単なるヴァリエーションで、同じテーマが変化したものにすぎない。」(p.31)

「不安」というのは、必要なものがあって、それが得られないかもしれない、という感覚です。
本来、「存在のすべて」が神なのですから、それ以外に必要なものは何もないし、仮にあっても、それが得られないということはあり得ません。
つまり、神が神である以上、絶対にあり得ないもの。それが「不安」なのです。

しかし私たちは、この相対的な世界ですべて(つまり神らしくないものも含めて)を体験したかったのです。
そのために、この不安を創り出しました。

この「不安」が生まれたために、私たちはその対極の「愛」という概念を生み出すことができました。
「愛」は、体験できるものになったのです。

そしてこのことにより、私たちの人生や社会は、すべてこの「愛」と「不安」を動機として、物語を繰り広げるようになりました。
そのことを、同じく「神との対話」ではこう説明しています。

「人間の行動のすべては、愛か不安に根ざしている。人間関係だけではない。ビジネスや産業、政治、宗教、子供たちの教育、国家の社会問題、社会の経済的目標、戦争や平和、襲撃、防衛、攻撃、降伏に影響を及ぼす決断、欲しがったり与えたり、ためこんだり分けあったり、団結したり分裂したりという意思決定、自由な選択のすべてが、存在しうるただ二つの考えから発している。愛という考えか、不安という考えから。」(p.34)

私たちの魂の目的は、あらゆる経験をしながら、本来の姿である「愛」に戻っていくことでした。
それはつまり、自ら創り出した「不安」を離れるということになります。

ですからレイキの「五戒」では、「心配するな」と言うのです。
心配せず、不安を抱かず、愛にとどまりなさい。
それがレイキ施術者の生き方であり、臼井氏が示してくれたことなのです。



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