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濃厚烏賊煮干しそば

急な外出でお昼ごはん難民と化してしまった。

せっかくなら夏らしいものをと欲張ったのが間違いだった。ちゅるんとざる蕎麦・・・、少し気張ってうな丼・・・、あるいはピリッとカレーライス・・・。狙ったお店はどこも満員。
じりじり灼熱の日差しに汗がにじむ。ぼうっと陽炎が見える道路を避けて、電信柱のなけなしの陰に潜む。困った。もう空腹よりどこかで涼みたい気持ちのほうが強くなってきた。しかし喫茶店のサンドイッチで午後を乗り切れるだろうか。
己を励まし歩き出し、パン屋を過ぎ弁当屋を過ぎ、いっそコンビニのイースインスペースで済ませてしまうか迷ったとき。ふと冷やし中華のノボリが見えた。

冷やし中華。
いいですね。
アリじゃないですか。
夏らしくて実にけっこうじゃありませんか。

オアシスを見つけた気分、よろよろ引き戸に吸い込まれていった。あ、涼しい。クーラー万歳。昨今では生命維持装置と言って差し支えない。ほっと溜息をひとつついて、券売機のボタンを押した。

「ありがとうございます。限定の烏賊煮干しそばですね!」

土壇場で限定の二文字に惹かれてしまった。冷やし中華よサヨウナラ。きっとこの夏の間には食べるから。たぶん。
さて店内は四人掛けが二つ、カウンターは10人くらい。この暑さのせいか客入りは半分くらい、おかげで限定20食もまだ残っていた。
やれやれとスツールに座り、じんじん火照るふくらはぎを揉み解す。アスファルトの照り返しが年々キツい。挟み焼のたい焼きの気分・・・あれ?お水来ないな。
うろっと店内を見渡すと券売機の横に冷水ジャーが置いてあった。ちゃんと動線にあったのだ。失敬、失敬。くたびれていて椅子しか目に入っていなかった。

グラスのラックの下に紙エプロンも発見し、一枚もらって席に戻る。ぐびぐびぐびっ。はぁ~、生き返る。ようやく人心地ついて、次は腹の虫と好奇心が騒ぎ出す。
だって、烏賊煮干しですって。
もちろん食べたことがない。烏賊煮干し、烏賊と煮干し?烏賊、というのはスルメを出汁にということだろうか。たまたま目についたメニューだから予備知識がなんにもない。一体どんな味なのか。新しいことはわくわくする。
カウンターの奥、厨房は大きな寸胴がコトコト煮込まれて、もあっと熱気の気配がした。でも吹き抜けのようにやや高めの天井のおかげか熱が溜まらず、店員さんもそこまで暑そうじゃない。いいことだ。店員さんが苦しそうだと気の毒になって落ち着かない。

「お待たせしました~」

気負いなくかつ丁寧に盛り付けて、待ちかねた一杯が運ばれてきた。
く、黒い。あまりの黒さにちょっとたじろいだ。重たげな灰色どろどろスープ、・・・あ、だけどほんのり感じるこの香り。控えめだけど間違いなく烏賊を主張している。
いただきます、れんげを持ち上げ、・・・すごくスープがまとわりついてくる・・・。
どんぶりの肌に落ちたしずくがもぉったーりと落ちていく。スープというよりソース。これはもうソースだ。予想以上の粘度に身構えつつ、ずずっ。

!!
・・・!!
急いでお冷のグラスを掴む。アッツ、アッツゥウウ!

どろどろのスープは地獄のように熱かった。迂闊な気持ちで啜るべきじゃなかった。びりびりやけどしかけた舌を冷やし、今度はそうっと、慎重に吸い上げる。ポタージュのような重たさと濃さ、まるでつけ麺のスープ並み。
どろっとした衝撃が落ち着くと、ふわんっと癖のある独特の香りが鼻を抜けた。

なるほど、烏賊って、イカワタのことだったのか・・・!!

塩辛を食べた時のような、イカ墨をパスタを食べた時のような、たっぷりの磯臭さとほのかな生臭さと、なによりねっとりと芳醇な香り。ダメな人にはダメだろうと思えるくらい、濃厚で強烈な烏賊の味。閉じ込められていた烏賊の香りがこれでもかと花開き、口で喉で炸裂する。

れんげ一杯のスープでビール一杯飲めそうなうまみにくらくらしつつ、細くてまっすぐな麺をたぐる。この熱さで伸びてしまったらもったいない。ずばばっと啜、アッツ!!アッツ!!!一人騒々しくお冷をあおる。なんだろう、懲りているはずなのにちっとも学習できない。滾る熱さが底知れない。あふあふ、と啜った麺はぱつんと歯切れよく小気味よくおいしい。しかしなにせスープが強い。ほろ苦いほどたっぷり感じる烏賊が味覚すべてを侵食する。かんすい控えめで柔らかい麺なのかな、ともう一口、今度はふうふう冷ましたのにまたしてもアツアツのまま。そうか、毛細血管現象でスープを吸い上げ持ち上げている。とろんとまとわりついたスープが保温効果で全然冷めない。

はふっ、はふぁっ。
れんげでバウンドさせるワンクッションを編み出して、どうにかズルズルやり始める。チャーシューじゃなくてローストポーク。しなちくはぶっとく厚め、塩気はちょうど。
もぐもぐ、もぐもぐ。
さんざん濃厚だと表現してきたけど、不思議と全然しょっぱくない。むしろまろやかにおいしく甘い。イカ墨のアミノ酸系のうまみ成分のおかげだろうか。こんなにコクがあって癖があって濃厚なのに、臭みもえぐみもそれほどない。
・・・いや、脳みそまで烏賊に侵食されたせいかもしれない。

はっ。気づいたら食べ終えていた。
ごちそうさま、呆然と手を合わせつつ、ハマりそうな予感を感じていた。
期間限定、ひと夏の恋ですし。