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夏野菜のガスパチョ、イベリコ豚とフォアグラのポワレ

人生で一番美味しいフォアグラを知ってしまった。

フォアグラ、世界三大珍味、高級食材。
人はつくづく欲深い生き物だな、というのが製法を知ったときの感想で、脂がきつい、というのが初めてソテーを食べた時の印象だった。そこそこ名の知れたホテルビュッフェだったからそこそこのグレードのフォアグラだったと思うのだが。したたる脂に舌が負け、脂の奥にかすかにうまみを感じるので精いっぱいで、ようようぐびりと飲みこんだ。食べ終えた皿にはたっぷりと脂が海になっていた。

それ以来、遭遇率は限りなく低いものの、フォアグラを味わう機会は何度かあった。フィレステーキに乗せられていたり、手の込んだテリーヌになっていたり。いずれも濃厚さをプラスしており、肉というよりクリームのような立ち位置だと思い込んでいた。


繁華街から離れた一軒家、カウンターのみという変わった店構え。シェフ一人ウェイター一人で切り盛りする小さなフレンチレストラン。店内はモダンジャズの装飾が施され、小粋なバーのような雰囲気だけど美味しいにおいに満ちている。
じゅぅうう・・・・・・。
前菜に夏野菜のガスパチョを頂きながら、白いコックコートの背中を見つめる。厨房はいつ来ても清潔で、手入れされた道具が静物画のように美しい。まるでインテリアのような優雅さだけれど、その道具を駆使して生み出す一皿は、本当に、なにを食べても、感動的に、美味しい。

ほら、この夏野菜のガスパチョだって。
香ばしく焼き目のついたスナップエンドウはじんわり甘い。オクラのつるんとしたぬめりとほのかな塩気。しめじは肉厚でジューシーで、まるでシイタケのステーキのようだけど、シイタケほど香りで主張せず、一皿の調和を乱さない。角切りにされた茹でナスはしゅむっと縮んでほどけていく。かりこりっ小気味いいブロッコリーの歯ざわり。ロメインレタスのほろ苦さ。そして全体に散らされたみょうがとカイワレ大根がしゃくっと爽やかなアクセントを加えていく。
そしてなんといっても、ガスパチョの滋味深いこと!塩気もニンニクも抑えてあって、トマトが優しく奥深く甘い。スペインバルなどで供されるような生ニンニクの強い辛みはなく、聞けば一度焼いたものを使っているとのこと。とろりと野菜に寄り添い引き立てて、味が複雑に交錯する。

あぁ、美味しい。とびっきりの料理を食べさせてくれる、とっておきのお店である。頻繁に通うには財政的に厳しいけれど、もし毎日食べたとしても、ここの創作フレンチなら胃もたれとは縁がない。

レタスの最後のひとかけらまで丁寧に味わっていると、スッとまあるいワイングラスをセットされた。メインに合うもの、とお願いしたらピノノワールの赤をすすめられた。肉ですか、と弾んで聞けば、はい、とにこやかに答えてくれる。シェフのおすすめで間違いないから何が出てくるか楽しくて仕方がない。
とぽぽぽ・・・と注がれる赤いしずく。一口含んでみると、軽やかで飲みやすく、そして最後にほどよい渋みで消えていく。恥ずかしながらワインはまったく詳しくないのだけど、かなり美味しい部類だと思う。
いつの間にか、じゅうじゅう油の弾ける音は止み、盛り付けの小さな物音だけになっている。ごくり、ともう少しグラスを傾けた。いよいよ、いよいよだ。

「イベリコ豚とフォアグラのポワレです」
ポワレとは、外はカリッと、中はふんわりした揚げ焼きを指すフレンチの技法のこと。なんともかぐわしい香り、こんがりした焦げ目がきれい。まずは、とフォンドヴォーのソースで彩られたイベリコ豚のみナイフを入れた。ぱあっと口の中に香辛料の華やかさ、きめ細かい肉質は柔らかく、しっとりうまみが効いている。
あぁ、わわ、すごい。大変だ。舌の上で起きている大事件を言葉で記録すべきなのに、とても語彙が追いつかない。

興奮冷めやらぬまま、さて、次はフォアグラを単独で。

切れ味のいいナイフの切っ先は、硬い焼き目をくっと切り割いた後はふにゅりと深く沈んでいった。フォークで抑えた切り口にじわじわ金色の脂がにじんでいく。そういえば、こんなに焼き色のついたフォアグラというのは珍しいな、とイベリコ豚の余韻に浸った頭で、言うなれば油断した気持ちで、ぱくりとポワレを食んだのである。

カリッ、ふわわわっ・・・・・・!

その瞬間の感動はすさまじかった。たぶん、とても、とても驚いた顔をしていたと思う。目は見開き小鼻は膨らみ、眉を吊り上げ全神経を咀嚼に集中させた。ワインに酔っている場合じゃない。
ぱり、かり、じゅわっ、じゅわじゅわわっ。
しっかりついた焼き目は外側だけで、中はとっろとろのふわっふわ。焼き目を噛んだ途端舌の上で溶けていく。それなのに、溶けるのに、じゅわじゅわっと口に広がるのに、全然、まったく、脂っこくない。ただ、ただ、濃厚な味わい。口蓋いっぱいに立ち昇るまろやかな香り。

フォアグラって、本当はこんな味なんだ。

驚きから覚めるにつれ、ゆるゆると頬がゆるんでいく。うっとり目を細めつつ、肉でもなく、魚でもなく、繊細なあまさと濃厚なうまみを両立させた奇跡を噛みしめる。なんで。なんでこんなに美味しいの。脂肪肝なのにどうして脂っこくないの。
そっと幸せなため息をついてイベリコ豚へ舞い戻り、そろそろとフォアグラを口に運び、夢でないことを確かめてから、しどろもどろにシェフに訴えた。とんでもなく美味しい。何もかも美味しいけれど、特にフォアグラがとんでもない。脂っこくないフォアグラなんて初めて食べた、と。

ありがとうございます、とシェフは照れたようにはにかんで、じっくり弱火で焼く間、余分な脂を丁寧に紙に吸い取らせるんです、と美味しさの秘密を教えてくれた。つきっきりで火に向き合って、丁寧に、丁寧に。
惜しみない手間暇と、美味しいものへの探求心、長年培った技術の蓄積で、フォアグラはフライパンでこんなに美味しく育つのだ。

すばらしいお店、すばらしい一皿に巡りあえた幸運を祝いたくなる夜だった。
あぁ美味しかった。ご馳走様でした。