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上ロース定食

 開店とほぼ同時に訪れたのに、店内にはすでに3組ほど座っていた。いらっしゃいませ、どこでもどうぞと促され、陣取ったのはフライヤー前のカウンター。下調べで決めていたけれど念のためメニューも開き、ちょうどお茶を運んできた給仕さんに注文した。
「上ロースひとつで」
「はい上ローズ一つ!」
 あいょ、と厳ついご主人が輪唱し、フライヤーに生かつを滑らせるのが見えた。じゅわぁ……!白い衣は黒っぽい油の海に沈みこみ、威勢の良い音が期待感を刺激する。はいこれ、と渡されたのは小さなすり鉢、中身は白と黒の煎り胡麻一掴み。摺って待つと口コミに書いてあったのはこれのことか。
 混む前にと急いでいたから、まだ息が切れていた。麦茶の湯呑をぐいと一口、二口。からんと氷の気遣いがありがたい。最高気温25度、五月だというのに日差しが強い。やれやれ、とため息が自然に漏れた。注文も終え気持ちに余裕ができて、卓上の脇役たちをチェックする。お、この小さな蓋つきのは黄色い辛子、たぶんこれがソース入れ、するとこちらはしょうゆ入れ。つまようじ、白い蓋ゴマだれドレッシング。A3一枚を二つ折りにしてパウチしたメニュー表。メニューだけはかすかにベタついたけれど、店内もカウンターもこざっぱりして清潔だ。
「お待ちどうさまです~」
 油断した。ご主人の動きにばかり気を取られていた。横から運ばれてきた四角いお盆、てっきり前から供されるかと思っていたので目をむくと、乗っていたのはご飯と味噌汁、お新香だけ。そうだよねぇと安堵すると、あい、と絶妙な間合いでご主人がメインをお盆に載せた。
 ことり、灰色の皿いっぱいの上ロース。六等分に刃が入り、きらっと油が艶やかだった。たっぷりの千切りキャベツを従えて、なんとも魅惑的なビジュアルである。
 いただきます。もどかしくお手元を割りながら、目線はとんかつへのラブコールに忙しい。端から、いや脂が多いはずだから最初の一口は真ん中から、しかしど真ん中はちょっとはしたないような気がするから左から二番目かな。目玉だけそわそわ迷わせて、そうだまず箸先を湿らせようと味噌汁椀に手を伸ばす。湯気の漏れる木の蓋はざらりと手に年季を伝え、ぴったり嵌ってなかなか開かない。はやく、と意外なほど焦らされようやく一口。ぶわっっと吹き上がる熱風に前髪が揺れる。アッツアツもアッツアツ、啜るどころではなく言葉通り箸先を湿らせただけでお盆に置いた。がらり、お椀の中でシジミが転がる。

 もう、待てない。

 入念なるシミュレーション通り、左から二切れ目を捕まえて、ぐっと体ごと前へ乗り出した。ゆらゆらそよぐ味噌汁の放射熱を右手に感じ、まずはそのまま。

 はぶっ、焦りすぎたのか転がり込んできたパン粉でむせた。っえふ、けふ、反射的に空咳がこみあげるけど、じゅぶぶっと歯が肉に沈み込んでそれどころじゃなくなった。じゅわり、とんでもなくジューシーなお肉、油っぽくも豚臭さも無っアッツ!!アッチ!熱い熱い熱い!!上顎焼けてる!!アッツ!!肉汁!!もったいない!!
 容赦なく襲い来る熱さと痛み、うまみの暴力。静かに身悶え咀嚼する。豚肉はキメが細かく柔らかい。蕩けるような脂の感触ではなく、しっかりした赤身肉の味がする。おそらくとても上質な肉を、とてつもなく上手に揚げてあるんだろうとお見受けする。カリッとした衣が完璧にガードして、肉汁をぎゅうっと閉じ込めてある。パン粉はどちらかと言えば小さめで、あくまでサクッと小気味いい。油切れがすごく良く、揚げ物と信じられないほどしつこくない。これは油も上等なのだろうか?店の口開けというコンディションの良さを加味しても素晴らしい。
 ごくんと夢中で飲み込んで、次は端の一切れを一気に頬張る。上顎はビリビリしたけど構ってはいられない。断面を見れば部位はロースだけど脂身は控えめで、端でさえ二センチ程度。豚は脂が美味しいけれど、この肉はこれが一番うまいと断言できる。じゃぐん、今度は脂身の触感と、とろんとした口溶けが舌に残った。口の中が美味しいで溢れていて、余韻を消したくなくて千切りキャベツをしゃくしゃく噛んだ。青みの奥にほんのり甘く、そういえばとやっとご飯茶碗にも箸を伸ばした。ご飯はいささか軟らかめの炊き上がり、揚げ物には固めご飯が好みだから少しだけ残念だった。ご飯と一緒に、と右端の一切れに今度はソースをつけて。摺りたての胡麻にとろりと茶色いソース。あ、辛子、と頬張ってから気づいたけれど、香ばしい胡麻とソースのコクで十分だった。そもそも塩さえいらないから蛇足かもしれない、とは思いつつ辛子もちょんとつけてみる。ソースと辛子と脂の馴染み深い味わいが口に広がる。うん、美味しい、でも肉の甘さが感じにくくなっちゃったな。
 当然のことだけど、食べればなくなってしまう。瞬く間に残り三切れになってしまった愛しのとんかつ、どう食べるのが一番いいか。前のめりだった体勢を座り直し、しゃきしゃきキャベツで時間を稼ぐ。冷めないうちにはやく食べたい、少しでもこの至福を引き延ばしたい。すり鉢に残ったたっぷりの胡麻、さっきの香ばしさは美味しかったな、とソースをつなぎに胡麻を塗り付ける。しゃぐっ。やっぱり、肉があまい。このかつならもう一枚単品頼んでもぺろっと食べられるだろうなぁ、といけない誘惑がわいてくるくらい。ごくん、あぁ、あと二切れ。キャベツに胡麻ドレッシング、うん、これは安定の美味しさ。ずぅ、とようやく冷めた味噌汁を啜る。少し濃いめの味つけ、柔らかめのご飯によく合う。なるほどこのバランスだったのか、とご飯と味噌汁をもう一往復、お新香も合間につまむ。沢庵とキャベツ、ややしょっぱめに漬かっていたけれどご飯と合わせると引き締まって丁度いい。ピリッと塩気が上顎に染みて、やけどに気を取られることが悔やまれた。こんなに美味しいのに集中しきれないなんて。
「いらっしゃいませ!二名様!」「あい、ヒレカツ二つ!」
 ピークに差し掛かった店にはひっきりなしに客が来る。そのことに深く納得する。そりゃそうだ、こんなに美味しくて、それでランチ1080円なんだから。あんまりコスパという言葉は使いたくないけれど、この値段でこの美味しさはちょっと感動的だ。
 あと、一切れ。キャベツ、味噌汁を順調に減らし、ベストな配分で迎えた最終決戦。揚げたての迸る肉汁は落ち着いてしまい、少しだけ浮世の無常を儚んだけど、やはり美味しいものは美味しかった。別れを惜しむように一切れを三口に分けて、むぐ、ぎゅ、……ごくん。
 はぁ。ごくごくと麦茶を飲み干して、空っぽになってしまった皿を見る。キャベツの千切りがひとかけら落ちている。ちょいと指でつまんで食べてしまい、ゆっくり深々頭を下げた。

 あぁ美味しかった。ご馳走様でした。