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(20)生みの苦しみがやってくる時

作業中に思うこと

久しぶりに色鉛筆で人物画を描いている。

人物画は似せることが大前提なので、自分の「我」を極力出さないで、モデルの方の人相ができるだけ魅力的に伝わるように努める。

お手本となる写真を見ながら、さらさらと少しずつ塗っていく。
色鉛筆は一番手に馴染んだ画材なので、技術的なことはあまり考えずに手を動かすことができる。
気持ち的にとても楽である。

一方で、「作業だな〜」とも思う。

色を少しずつ重ねていく工程も、確かに創造的な時間ではある。
しかし、頭の中にあるイメージを真っ白な紙に描き起こす時に比べれば、ほとんど頭を使っていない作業ともいえる。

様々な色を重ねて深みを出しているとき、心持ち的には「絵描き」よりも「職人」に近い。

こんなふうに、絵を描いているぞという実感は、創造性を要する時間ほど強くなり、単調な作業では弱くなることがある。


創造性が試される工程

塗りながら、創作ってなんなんだと考えている。

物を創るには、たくさんの工程が必要だ。
例えば一枚の絵を描こうとしても、僕は以下のようなステップを踏むことが多い。

  1. いいものにたくさん触れる

  2. アイディアを出す

  3. 伝えたい事、感情を決める
    ▶︎テーマ、コンセプト設定

  4. 描きたいものや景色を決める
    ▶︎モチーフ、場面設定

  5. 資料集め(適宜)

  6. 構図、レイアウトを描き出す
    ▶︎線画ラフ

  7. ライティングを決める
    ▶︎陰影ラフ

  8. 配色を決める
    ▶︎カラーラフ

  9. 修正しながら仕上げていく
    ▶︎ペン入れ、本塗り

  10. 仕上げ
    ▶︎画像補正、画面保護、額装など

もっと大雑把に言うと、たぶん下のような5段階になる。

情報収集(上の1)

発想(2)

情報整理、設計(3〜5)

具現化(6〜8)

磨き上げ(9)

創作活動とあまり縁がない人にとっては、後半の2つが主たる作業だと思うだろう。
絵描きが絵を描き、漫画家が漫画を描き、小説家が文を書き、映画監督が映画を撮る段階だからだ。

しかし、費やすエネルギーと時間は、前半3つの段階の方が遥かに多い。
特に苦しいのが、3番目の「情報整理、設計」のステップだ。
アイディアが作品の形になれるかは、大抵この関門を越えられるかどうかにかかっている。


生みの天国と地獄

順を追って話そう。

まず何かを作ろうと思い立つ前に、アイディアの材料となるインプットが必要だ。
感動する映画でも、小説でも、漫画でも、YouTubeでも、駅に貼ってあるポスターでも、なんでもいい。
とにかく自分が見ている世界から感動するものを集めたり、記録したりする。

好きなように良いものに触れて感動に浸れば良いので、大変楽しい。

常に自分の創作を気にしながら暮らしていると、ふとした時に「これって作品に取り入れられないかな」というアイディアが思いつく。
一度思いつくと、派生してどんどんアイディアが湧いてくる。

なんだか面白いものが作れそうな気がしてくる。
大変楽しい。

さあ作るぞと思い、机に向かう。
いきなり完成系がイメージできているわけではないので、アイディアを形にするには何が必要か考える。
例えば砂浜で遊んでいるキャラクターたちの絵を描きたいとして、

どこの砂浜で遊んでいることにするか?
その場所だと分かりやすくするにはどうすればいいか?
誰視点の絵にするか?
時間帯や季節はどうするか?
なぜ砂浜で遊んでいるか?
その場面の10秒前、10秒後には何が起こるか?
余白のバランスはどうするか?
いちばん見て欲しいところを見もらうにはどうするか?

など、決めなくてはいけないことがたくさん出てくる。
それらを矛盾なく成立させ、最初に思いついたアイディアの面白さを残すのは、意外と至難の業なのだ。

数パターン描いてはボツにし、キャラや物を配置しては違う気がしてきて消し、そんな一進一退を繰り返して、ようやく方針が固まってくる。
大抵は納得がいかないが、どうにか許せるラインで諦めて次に進まないとモチベも続かないので、しぶしぶ次の工程に進むのである。

これが本当に苦しい。
エネルギーをめちゃくちゃ使うので脳が疲れる。
ここだけ誰かにやってほしくなる。
しかしここで苦しんでおかないと、自分が最初に想像した物とはかけ離れた結末になってしまう。

骨組みが決まったら、次は肉付け。
ようやくキャンバスや紙に描き始める。
ここまでの段階で、言うなれば絵の設計図が出来上がった状態。
スケッチブックやiPadなどの上で散々格闘した結果を、いよいよ作品に落とし込み始める。
ここがまた思い通りにいかなかったり、技術的に及ばなかったりして、大変苦しい。

たとえば先程の砂浜の絵だと、情景描写のためにボートを海に浮かべようとなる。
このとき、そもそも描き慣れていないので船の構造がどうなっているかわからない。
水面の下の屈折した船底やオールがどういう見え方になるかとか、係留する為の道具やロープの結び方など、知識がないものは調べて理解する。
波や砂浜などの自然物の見え方は、絵画表現や科学の知識も総動員して、なんとか違和感なく見せる方法を探る。
考えることは山ほどある。
絵は頭を使う。

ざっくりとモチーフの形が取れ、色が乗せ終わった。
あとは一気に仕上げるだけだ。
大雑把に塗った色を馴染ませて滑らかなグラデーションにしたり、反射を描き分けて質感を出したりする。
ここまで来ると単純作業だが、最終的なクオリティを引き上げることになる大事な作業だ。
時間がかかる割に、パッと見では絵に変化が少ない。
音楽を聴いたり動画を見たりしながらでも進められる作業なので、それなりに楽しい。


アイディアは勝手に形にならない

好きな作家が、エッセイでこんなことを書いていた。

仕事で書き物をやっていて、特にマンガや小説などのフィクションを作っている人が、たまに言われることがある。
「いいアイデアあるんだけどあげようか?」
これを言われた人の結構な割合がムッとしている。
いらないからだ。

(中略)

 彼ら(創作者)がいっぱいに抱えている「アイデア」は、植物でいえば種子を意味する。なんだかすごい木に育ちそうだ、という予感を秘めた核。それが「創造のアイデア」であり、創作活動において最も楽しい部分である。

  そして、彼らが無いと嘆く「アイデア」は、植物でいえば種子の育成のノウハウを意味する。
 種子をいかにして大きくするのか。肥料を工夫するか。水をやる頻度はどうするか。日光に当てるべきか……。それが「つじつま合わせのアイデア」であり、創作活動において最も大変でダルく、試行錯誤を要し、考えに費やされる時間の大部分を占めるものである。
品田遊『キリンに雷が落ちてどうする』

該当エッセイのもとになったnote記事は、以下から全文が読める。

めっちゃくちゃわかる。

スケッチブックに描き出したときの、面白いものができそうというワクワクは、つじつま合わせの七転八倒中に大抵は尽きる。

そこも創作の醍醐味と言われてしまえば否定はしないし、僕自身も嫌いなわけではない。
苦しいぶん、綺麗に組み上がった時は気持ちがいい。

しかし創作の醍醐味だとしても、この地道さは花形とは言えないと思う。
別に「国民全員がこの苦労をわかってくれー!!」というつもりではないが、この認識のギャップのせいで不憫な想いをすることは割とある。
意外と苦しいんですよ、くらいには主張してもバチは当たらないのではないか。

あ〜ヤダヤダ。
吐き捨て終わったので机に使うとする。

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