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他人の意見などクソ‼️

小学生高学年から中学生3年くらいまで、ヤンキーのターゲットであった。これは私にとって辛い過去であり、暗い過去であり、思い出したくもない過去である。

だから、あまり他人にこのことは話すことはないし、自分でも地中深い所に埋葬して、見ないようにしている。

この苦い経験は私にとって、それ以来の人生においてかなり影響を及ぼすことになった。

それまでは、出る杭はドンドン出よう!みたいな感じから、出る杭は打たれるってことがモロにその通りに実現してしまうようになった。

それからは、なるべく自分を目立たぬように抑えるように自然になってしまった。

当時の私はクラブでもキャプテンで、地区代表のメンバーでもあり、勉強でもクラスでは常に1番て、480人中いた学年の中で10番以内には常にいたという絵に描いたような文武両道の天才児であった(当然嘘です)

当然天才とかには程遠いが、上に書いた通りの生徒であった。だから、いつも他人に妬まれ、ヤンキー軍団に目の仇にされていた。そのヤンキー達は、過去に私とケンカして、私が制裁を加えていたのだか、それがまた仇となり、群をなして、私にリベンジしてきたのでした。

そのトラウマが未だ全て消え去ることはなく、かなり小さくなったものの、今もまだその存在がいることを時々感じるのである。

それを1番に感じるのは、『他人の声』に動じてしまう時である。自分の意見や行動に不安になる時があり、ついそれが『正しいか?』とか『誰かを不快にされていないか?』とかつい顔色を伺って、自分の本心とは違うことを選択してしまうのである…

そういった選択をしてしまうとまず、うまくいかない。上手くいくことがあっても違和感ばかりが付いて回る。

何かが違う…

という思いに包まれるのである。

テストでいうなら、成績が悪い他人の答えを解答して、間違えを解答してしまうといとんでもなく馬鹿げたことをしてしまっているということになる。クラスで1番なら、他人の答えなど、無視すべきだろう。みんなが間違えているから、私が1番になってきたはずなのに…

『自分がこれ』と思ったことは、間違えてもいいじゃないかと。間違いを恐れて、他人の答えをカンニングして、間違えた時の悔しさに比べたら屁でもないはず。

殆どの人が天才でないのだから、間違えて当たり前。どうせ間違えるなら、自分で選んだ答えで間違えた方が、先にも繋がっていくだろう。

思い切りとんでもなく外した答えでさえ、それが自分で考えて結果であるなら、後悔はしないだろう。

だから、これからはもっともっと『自分の答え』にこだわっていく。それがどこに向かうかは知らないが、結局人生に正解などないから。

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