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“漫画だから”こそ傑作になった『セトウツミ』という作品について

『セトウツミ』(秋田書店/此元和津也)を読んだ。思考停止した感想を初めに記すと「面白かった」の一言である。それが俺の『セトウツミ』についての感想だ。って、酷い書き出しだな。なんてのは一旦置いておきまして。

 さてさて、なぜ2017年に完結した作品を今さら読んだのか。そして、なにが「面白かった」のか。わざわざパソコンに向き合って「面白かった」理由を考えようと俺に思わせるポイントとはなんなのか。つい一段落前に停止していた思考を起動させながら書き留めようと思うワケです。

 まず、なぜ2017年に完結した作品を今になって読んだのか。

 簡単な話である。きっかけはひとつ。以下の配信で、鹿間氏が「おすすめの日常系漫画」として『セトウツミ』を挙げていたからだ。信頼できる感覚の持ち主に薦められたコンテンツを積極的に摂取していくタイプの人間なのだ、俺は。

 まあ、あれだ。そんなことはこの文章にさして関係ないことだ。重要なのは『セトウツミ』の「面白さ」にいかに迫れるか、だ。うん。

『セトウツミ』の面白さ

 というわけで、ここから『セトウツミ』の持つ「面白さ」について考えてみることにする……って、その前に漫画『セトウツミ』を、まったく知らない人もいるだろう。つまり、あれだ。『セトウツミ』の概要について説明しておく必要があろう。

 キーパンチの労力を割くために、以下、出版社の作品紹介を引用……と思ったが、作品単体の紹介文はなかったので、Wikipediaの記述を引用する。

 瀬戸と内海が河原の階段でたわいもない話しをするお話。特に大きな事件が起こることもなく、河原での時間つぶしが繰り返されていく。
 もともと何の目的もなく河原で時間をつぶすだけのように見えた二人だが……

 盛大なネタバレ(?)が記されていたので、その辺りの記述は省いた。が、概ねこの通りだ。『セトウツミ』の概要として不足はない(とはいえ、このWikipediaの説明には重大な欠陥がある。それは「河原」ではなく、「川辺」であることで……ってのは後で書こう)。瀬戸(セト)と内海(ウツミ)、彼らの会話がシットコム的なつくりで話数が重ねられ、物語が紡がれる。

 概要に触れたところで、ようやく『セトウツミ』の魅力について続けて記していこう。

巧みな会話劇

漫画を読んだ人間であれば誰もが思い当たるのは、主人公の瀬戸(セト)と内海(ウツミ)の会話の純粋な面白さだろう。

 上で埋め込んだ配信で、鹿間が「比喩が真似したくなる感じ」「キレてる」「台詞回しが上手」と語っているようなそれだ。

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 これは本当に単純に「面白い」。優れた会話劇(『12人の怒れる男』ないし漫才を見ているような)としての面白さだ。鹿間の言う通り、真似したくなるような言い回しがドカドカとある。

 ただ、漫画『セトウツミ』の「面白さ」を説明するとなると、表面的な「面白さ」以外の「面白さ」に触れるべきだ。『セトウツミ』は「面白い」。それは、なによりも漫画“だからこそ”の「面白さ」に迫っている点に「面白さ」がある。そういう風に俺は思う。

 改めて書く。『セトウツミ』の「面白さ」は漫画“だからこそ”なのだ。これこそ『セトウツミ』が優れた“漫画”であることを証明している。優れた作品には、作品のコンセプトと発表するメディアの間に論理的な必然性があるものだ。例えば、ジョン・フォードの『駅馬車』は映画でしかできない表現をしたから評価を受けたわけだし、ベスターの小説『虎よ、虎よ!』だってそうだ。

 セトウツミで検索をかけてみると、「セトウツミ ドラマ ひどい」「セトウツミ 映画 ひどい」とサジェストされる。俺は映画もドラマも見ていない。しかし、ドラマに出ていた演者も、映画に出ていた演者も、役者として力が劣っていた、ないしは、制作サイドが下手を打ってばかりだった。とは思わない。思えない。

漫画だからこその「面白さ」

 漫画『セトウツミ』が、会話(漫才的にいうと掛け合い)の「面白さ」を最も増幅させるメディアであるから、漫画以外の表現では『セトウツミ』の魅力を伝えきれないというだけだ。そして、だからこそ漫画『セトウツミ』は「面白い」のだ。

 それはなぜか。簡単な話だ。

 トートロジーのようであるが、“漫画だからこそ”なのだ。漫画だからこそ……というのは、つまり、読み手それぞれのベストなテンポで会話劇を楽しめることにある。これが漫画『セトウツミ』を素晴らしい漫画たらしめる理由に違いない。

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『セトウツミ』は“漫画だから”こそ、会話劇の「面白さ」を描き切れている。それは疑いようがない。漫画として。つまり、テンポを読者に委ねられる形態として。それでいて、絵的な広がりもある。漫画でなければ表現しえない表現を漫画『セトウツミ』は成し遂げているわけだ。

 ※『セトウツミ』は終盤の展開も評価されているが、アレはオチに向けた展開でしかない思うし、構造を取り出すよりも、なぜ二人の会話だけで漫画を成り立たせることができたのかに注目したいというのが現時点での俺の感覚だ。これが仮に勘違いであろうとも、ベースに巧みな会話劇があったからこそ、最期のオチが効いてくる。要するに、会話劇の素晴らしさに裏打ちされた漫画であることに疑問を挟む余地はない。つまり、『セトウツミ』を評価するうえで大切なのは“会話劇”にあろう。

 さて、話が長くなってしまった。早く終わろう。

ごく限定的な舞台設定

 次に書くのは、舞台設定の巧みさだ。憎さまで感じられるほど巧みだ。

 ここでいう舞台設定とは、ミステリで用いられる「クローズドサークル」をコメディに持ち込んだそれを指す。

 そして、上でわざわざ指摘しつつ触れたように舞台は河原ではなく、川辺。『セトウツミ』は舞台が重要なのだ。肝なのだ。

 なぜこのポイントにしつこくツッコむのか。

 それはあれだ。「河原」であれば、セトとウツミの会話を中心に据えることはできまい。なぜなら、河原であれば外部の存在が二人の視界にいかようにも浸入しうるからだ。

「川辺」だからこそ、セトとウツミの(時折外部の浸食を受けながらも)互いの掛け合いを中心に据えられる。そして、その掛け合いこそが物語の屋台骨なのだ。なんと絶妙な舞台設定だろう。

・・・

 余談だが、これが実に瀬戸内海(セトウツミ→瀬戸内海)らしいのだ……。広島県出身(つまり瀬戸内海界隈)、三角州の内側で育った俺は、そう思うのだ。俺もかつてきっと、セト、もしくはウツミだったのだ。

 問わず語りは恥ずべきことと思っているが、続ける。

 俺も昔瀬戸内海(セトウツミ)からほど近い川辺で幼馴染としゃべり続けていたのだ。中学生の頃に。保育園の頃からの友達と。

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 俺は中高一貫校に進み、彼は地域の公立校へと進学した。俺はひどくグレることもなく、ただ、たまに午前の授業をサボりながら、学校にはまともに通っていた。一方、彼はしっかりとグレて暴走族に入った。そんなヤツと川辺でしゃべりつづけていたのだ。俺が学校をサボったときには、川辺にいつも彼がいた。平日午前。太田川。

『セトウツミ』とは違うが、俺も友人と川辺でボケ、ツッコミ、ボケ、ボケ、ツッコミ、ボケ、ツッコミ……と、喋り続けていることが愉しみだった時期がある。ってなんだ、これは、『セトウツミ』には関係ない。しかし、これも書き留めておきたかったことのひとつには違いない。

 とかく、なんだ。河原ではなく、川辺は他者の介在がほとんどないのだ。だからこそ、互いの会話に集中できる。もしも、舞台が河原であれば、セトとウツミからの視界に、さまざまな人物が映るだろう。彼らが放課後にダベっているのは、川辺なのだ。故に、彼ら二人の会話が際立ってくるのだ。

 河原に比べ、川辺では視界に入る人間の数は少ない。河原ではなく、川辺。あえて舞台をクローズドサークルに持ち込んだ。これが漫画『セトウツミ』を傑作たらしめている偉大な設定である。

 川辺というクローズドサークル(川辺という絶妙な開放的空間)で交わされる掛け合い(つまり緊密=緊張を伴う)会話が、『セトウツミ』を日常系漫画“非ざる”境地にたらしめたのだ。俺はそんな風に思った。

 とかく『セトウツミ』は「面白い」漫画なのだ。

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