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生まれてしまった自我  —崎山蒼志「ソフト」について—  (2/3)

第二章 生物的部分の喪失と、大衆の弱さ

世界との一体感をなくし、喪失感を抱えた崎山は「公園」の隅で「キャッチボール」し、再び他者と一体になることを渇望する。「公園」は公的に仕切られた空間であると言える。木々を伐採し、土地を切り開き、遊具や立看板を設置した「公園」は、綺麗に区画整備された人工物である。それは、コンクリートの建造物に囲まれる都市の風景や法律に規制された社会構造を暗示させ、「肉体と精神」が分化し、生物の枠から外れた人間の象徴でもある。 
しかし一方で、「公園」は子供たちが自由に集まることを許された童心を象徴する場という一面も併せ持つ。童心とは、世界や他者と一体感を持っていた幼年期の心情の事で、つまり、一体感への確かな手触りを持っていた、唯一の時期である。ここで一つの仮説を立てるのならば、一体であった過去へ、郷愁を抱く崎山は、世界を象徴しながらも童心を孕む「公園」に、再び他者と出会えるユートピアを見出したのではないか。
その「公園」が白いのは、「太陽」に照らしだされているからだ。崎山の曲の中で、「太陽」は焼き払い、打ち壊す力を持つものとして、用いられることが多い。「太陽を体内の内臓まで燃やして」(「heaven」より)、「ああ太陽よ 壊してよ 僕の夜を」(「太陽よ」より)と、歌われ、「太陽」に対して破壊のイメージがある。
「太陽」は、恒星であり地熱をエネルギーに自身の寿命を燃やしながら光る。そのため、ここで描かれる自己破壊的なイメージとも通じる。「内臓」を含め、すべてを焼き払う破壊的なイメージは、自己救済を求める叫びに似ている。精神に傷を負った少女がリストカットするのは、精神的外傷を具現化する欲求があるからだという。「太陽」が自己を焼き払い破壊してくれる時、それは「自我のめざめ」の痛みの具現化になる。ここで言えるのは、自己破壊の激しい欲求は、自己救済の欲求でもあるという点だ。
「肉体と精神」の分化から、逃れられない社会で唯一、童心が守られるユートピアとしての「公園」は白日に照らされ、「太陽」の救済が届いている。一体感をなくした世界に残った隙間として、その「白い公園」の隅では「キャッチボール」が出来るのである。
「歩く」には、道がいる。道も切り開き整備されないと生まれない、人工物である。その道には「穴」がある。「穴」は欠落感、不満足感を表している。「昨日」、つまり一瞬間前の「僕は」それを見つけてしまったため、他者に呼びかける必要性を感じたのだ。けれども、「昨日」の僕は、生まれてしまった「自我のめざめ」の痛みを「見ないことに」し、無いものにしようとしてしまう。その弱さは、私にも身に覚えがある。目を閉じ、口を閉ざし、欠落の存在や疑念に反応しないようにする。抱える痛みや迫る悲しみの気配を無いものとし、日々を送っていくのは、表面上の平穏をもたらしてくれる。今まで信じていた対象に疑念を抱くのは、限りないエネルギーが必要で、耐えがたい痛みを伴う。疑念を認める事は、自分自身の手で、今まで癒着していた対象を引き剥がす行為だからだ。そこには必ず血が流される。
その痛みから言葉を紡ぐことを選べないのが、大衆の持つ弱さや甘さである。けれども、例え目を反らそうとも「穴」の存在は消えるわけではない。むしろ、目を反らす行為は対象物があって初めて起こる行動であるから、それは逆説的に、対象物の存在を認めることになってしまう。そのため、「穴」は「嘘」へと変化し、「一メートルを超え」るほど成長していく。崎山は、自分が弱さや甘さを持つ大衆の一部でもあると自覚している。この自覚が、彼が痛みと誠実に向き合い作品を多く作る中で身に着けた、力である。
たとえ「嘘」に成長しても、その事を語らないのが大衆である。しかし彼は、ただ真摯に作品制作に没頭する中で、自身の心の違和感に立ち止まり、「嘘」だと外界に言い切る強さを培っていた。だから、「穴」を無視してしまう自分についても、詩で書き示す事が出来る。それは大衆の弱さに寄り添った言葉だともいえる。
大衆は彼の詩の中に、弱さに揺らぐ自身の像を見出し心底から共感する。そして、決して明るみに出る事がなかった、日陰者として存在を消されてきた弱さが、崎山によって歌われることで、弱さを語ることは外界とつながっていく強さにもなりえるのだという事実に、勇気づけられるのだ。それは、傷の肯定へとつながっている。

「庭」は家などのプライベートな所有物として存在するため、精神と近い関係性にある。例えば、心理療法の一つ箱庭療法は、砂の入った箱の中に、人形や動物等のミニチュアを自由に配置し言語化出来ないストレスを表現する、内面と「庭」が密接な関係を持つ治療法だ。 
内面に「咲いた 偽善の花は」、離別を経験して生まれた疑念のために、美しさをなくし「枯れて」しまう。「花」は美しい物の象徴として用いられている。崎山がかつて、美しいと信じていたものは、世界と一体化していた過去の世界の事であり、離別を経験し疑念の湧いた今では、「花」の美しさは「偽善」になり替わって朽ちていく。
「生き物」は、「言葉」を持たない「肉体と精神」が未分化状態にある動植物をさす。一章で述べたように、人の内部には、「肉体と精神」が分化する前の生物的部分と、「肉体と精神」が分化し言葉を獲得した人間的部分がある。動植物と人間の違いは、言葉を持っているかどうかである。言葉を持っている事は、「自我のめざめ」の経験の有無と同義だ。「自我」の芽生えをきっかけに、生物的な部分が弱まっていく過程が、「死んでいく生き物」のように「見え」、生物的な部分が消える感覚だけ残留する「庭」は、「墓場のよう」だと、ここで崎山は回想するのである。
 生物的部分が「死んでい」き、内面が「墓場」に変わったと回想し終えた時、彼は「両目を開け」、「自我のめざめ」によって生まれた傷を目視しようとする。それは、一体感を失くしたことを憂う人間的な自己を守るためである。憂いている限り、私たちは一体感を有する童心を忘れてしまう事はない。世界と離別し変わってしまった人間的部分に偏り、変わりたくないと願う、生物的部分に価値を見出す自己を切り捨て生きていく事は、「穴」を見ないことにして過ごした「昨日」の僕と同じで、「嘘」を「成長」させる事に繋がってしまう。
崎山はここで、「自我のめざめ」に苦しむ自己と、生物的部分を憂う自己が、両方とも守られる融合点を、現状を目視することで模索しようとしている。そして、この模索している自己こそが、両方の自己を守る融合点「爽やかな空間」である。「爽やかな空間」を「壊さないように」するためには、「両目をあけて」現状を目視することに耐え得る、力が必要である。その力は、日々黙々と創作してきた崎山の目に宿っている。
崎山と同じように、自己の在り方を模索したという点で、実存主義哲学者キルケゴールの興味深い思想を、飯島宗孝は、こう述べている。

人は誰しも単独で神の前に立つしかない。そこに他人の介在する余地はない。どれほどの愛をもってその人の身を案じようとも、その人自身が、自由に、主体的に立つしかない。それゆえ、「ひとは他人に対して何を為しうるか」が、この絶対的単独性の基礎の上で、キルケゴールにとって並々ならぬ深刻な問いとなり、そこにソクラテスの産婆役の意義が自己限定として答えとなったのである。
(飯島宗孝「単独者と憂鬱 キルケゴールの思想」)

世界との離別を経験した私たちは、もう一体感のある世界に戻ることは出来ない。それは生まれてしまった胎児が、母胎に逆戻りすることが出来ないのと同じだ。
だから、私たちは「自我のめざめ」を経験した以上、「単独で」「立」っていくしかない。「単独で立」っていると認められたとき、初めて他者との出会い直しが始まる。なぜなら「単独者」の自覚は、新しい世界の上に立つ、同じ「単独者」の他者を孕んでいるからだ。「両目をあけ」ることは、「単独者」の自覚へとつながり、またそれは「爽やかな空間」を守る事にも、なりえるのだ。

(第3章に続きます!)

第1章 序・一体感の喪失→

第3章 完全な球体と不完全な球体→

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