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境界線の無いこの世界で

この記事は、自分の心をまとめるため、あえて抽象的に書く。ポエムみたいですみません。本当に日記のようなもので、自分を慰めるために書くので書きましたのツイートを投稿しない。用が済んだら消える。

ある著名人が自分で境界を超えることを選んだ。最近あまりツイッターを見ていなかったので、私はそれを今日知った。
その著名人が本当に良い人か悪い人かはわからない。ただ、自分のあり方と、求められるあり方の狭間に揺れて、既存の枠組みにアプローチをしたり、色々頑張っていた。

あることを境に彼に投げられる言葉が批判と暴言になった。この境目は一体なんなのだろう。誰もが傷つくある言葉は「これは批判」だと投げれば批判なのか?暴言の批判の境目は一体どこにあるというのか。境目はあいまいで、誰にもわからない。
この世はカラフルで、グレーで、流体のように掴みようがなく、そんなグラデーションの中を言葉が世界を形作っている。この世界を少しずつ切り分ける言葉というものが、またどこかで誰かを殺したのだ。

曖昧な言葉を用いるのは、私がこのことに言及するのが恐ろしいからだろう。私よりも優れている人達が、私よりもいとも容易くそれを選んでしまう世界に、心なしかなってしまっている。
そのたび、心が嫌なさざなみ立つのだ。
自分が用いる言葉と、誰かを殺した言葉になんの違いがあるのだろう。
なんて恐ろしい。
そんなために私は言葉を紡いでいないのに。

それでも、私の発した言葉もきっとどこかで誰かに傷をつけているのだろう。
その事実すら重い。
書くということは一体なんなのか。
発信する意義とはなんなのか。
少し、考えます。



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