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じぶんの成分

 自分は子供の頃から根幹は変わらないなと思いつつも、若い頃と比べるとあれこれ変わった部分があるなあと思ってしまう。
矛盾してるようだけれどそれが等身大の自分で、きっとそれは理想の中の自分との差分と時系列の中での自分の変化グラフとをひとつのレイヤーに重ねることで見えるかたち。

おそらく人生で道はんぶん来たくらいかな、と思う今の年齢の自分。ちょっと振り返ると今の自分をかたちづくってきたいろんなことが見えてきます。
今後の「はんぶん」のために少し整理してみようかな。
おそらく今も変わらない、意識せずとも大切にしてきたもののはなし。

…自分を客観的に組み立てる要素としては、好きなものを挙げるとなんとなく見えてくるでしょうか。
今主なアウトプットの方法としては写真が一番多いのかな。
写真を撮ってSNS等に投稿すること。そこからたくさんの人と知り合ったり展示をする経験をさせて頂いたり、色々な物事を考えるきっかけになっている。
今現在の大事なパートナーは展示で知り合った方ですから、自分が写真をやってなかったら今あるこの状態、ではなかったですね。

でも、私にとって写真が全てかといったらそうじゃないし、一番の趣味とも思っていない。
語弊を承知で言えば、私にとっては他の何よりも早くできてコンスタントに発表できるようなものだからです。簡単という意味ではないですが、自分のイメージの中にあるものを表現したいときに他より形になりやすく発表しやすいものだから。

 私の想像するものを形にするならば、絵がふさわしいときもあるだろうし音楽がより伝えやすいときもあるだろうと思う。
けれど絵は難しいし音楽はなかなか出来上がらない。「これ」というものができるまでに相当時間がかかって、5年に一曲できれば良いと思うペースになってしまった。これではあまり「イメージをかたちにする」という部分では現実的じゃない。気分転換のためにする趣味、完成形が仕上がるかどうかが見えないような、作ることが楽しみであって作り上げることが目的にならない趣味です。作るというより組み立てるのが好き、といった段階かな。

 インプットはきっと音楽とスポーツ観戦がほとんど、でしょう。
私の場合音楽は日本語の曲は知恵のインプットやモチベーション維持のためにあり、気分転換のためには音だけ聴けるものを選びます。言葉が理解できるものは言葉と音がちゃんと流れを同じくしていないと違和感を感じてストレスになるので選択がちょっとシビアになる。
スポーツ観戦は茶番じゃないから生まれる「限界の先」を見つけることを期待している。
ここにはすごくいろんな知恵をもらえます。
自分の中の常識の上限が書き換わることが頻繁にある。
ゴールとその道筋が容易に読めないことばかりだから、その分もらえる知恵が多い。
映画やお芝居は好んで見ません、というかスポーツを見るようになってから見られなくなったものです。創作物は誰かのイメージの範疇に収まることを目的とするしそれを以って収束なので、想像の範囲を超えるものが見たい、知りたい、と思ってしまう自分にはスポーツ観戦の方が想像を超える場面に出会えて満足できる可能性がより高い。同じ時間を費やすなら断然こっち…というふうにいつの間にかなってしまいました。
映画で「すごい」と思うことはできるけど、心から感動することができない。「こんなことって“本当に”あるんだ!」と思うことができないからです。

たぶん自分は、自分の中のこの世の常識の上限を壊せるような経験をしていたくて、そこに今を生きてる感覚というのを感じるのでしょう。
だからそこに限られた時間を費やしたいのだと思う。

そういう意味で自分の時間を費やしていきたいことや気になることをいくつか書き記していこうかな。
そこからもっと何か見えてくるのかもしれない。

Photo by Nobuyo OKASHITA 
Camera : SIGMA DP2 Quattro

誰かの心の平穏やきらきらを取り戻すお手伝いがしてみたい。