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2022年のわたし 

 プロフィール記事なんだけど、数年たつとなんか全然別のことになってたりして現状と違うなー、っていうのもあるので更新することにしました。ここ数年での変化とか、見えてきたこととか交えつつ。

前回の記事は →これ

基本的事項

東京の下町、カープの宇草選手とおんなじような地域の出身。
性格的には意見ははっきりしてる方。故に酒は飲まない方が人間関係を壊さずにすむ、と思っているし、夫もアナタはそうでしょうねと言ってる。いろいろ考えることは好き。料理は調理じゃなくて味付けを考えるのが好き。自分の好みの味の料理を作るに関しては世界一の料理人だと思っている。片付け、早起き、体を動かすこと全般は苦手。

興味のあることはスポーツ観戦と音についてあれこれと写真撮るのがほんのちょっとくらい。
一個一個紹介しつつ、くわしーく話をしていきましょうか。興味があるとこがもしあったら長話におつきあいください。

音について

曲の配信始めました。↓

そのほか配信先などのリンクのまとめは ここ

 もともと聴くのも好きだけど、作るのも趣味。最近いい時代になったなあと思うのは、個人でも配信するのが難しくなくなったこと。「好きだからやってんだ」が通用するようになったんですね。同時に、100円稼ぐのってこんな大変なんだ、と思うようにもなった。配信の仕方や配信先の決まり事にもよるけど、1再生で0.01ドルとかみたいな世界なので金額って意味では駄菓子代にもなりません 笑 だけどそれ以上に、っていうかそんな状態だから、地球の裏側くらいの配信サービスを通じて聴いてくれた人がいると感謝したくなる。たまたま出会っただけの一期一会の関係かもしれないけど、妙に嬉しい。

 とはいえ、作る作業が好きというだけで曲が頭からあふれるような脳みそではないので、作るっていうよりマスタリングがどうのこうの、とか、こういうフィルター使うとこう変わる、みたいなのを試す作業がどうやら好きみたい。正解はよくわかんないけど変化をしていくのが楽しい、くらいの感じです。こういうことをやってるとすぐに時間は過ぎちゃう。

写真について

 カメラ持ってるといろいろ撮るけど、それだけが一番楽しい趣味って時期は終わっちゃったな 笑 この空気感がすきだなー、っていうものは撮りたくなるけど、わざわざ写真を撮るためにいい景色探すとかはないです。見る側としても、何の変哲もない風だけど、撮り手の人の好きな光景、その人にしかない目線で見えるもの、っていう写真が好きだから、どうだすごいだろ的な写真は見るほうでもあんまり興味ない感じ。なので、撮る側としても見に行った試合の写真とか撮ることが一番多くなりました。

 次のスポーツ観戦の項にもかかってくる話かもしれないけど、試合に行ったときの写真残しとくとあとで見た時結構良い。その場にいたときには気づかなかったことに写真を見た時に気づくってこともよくある。10年単位で見てないと気づかないなにかのつながりみたいなものに撮った写真で気づいたときは至福。スポーツ観戦も写真撮るのも好きでよかったと思う瞬間です。


スポーツ観戦

 これは長い話になるのであとにもってきた。
もうライフワークと言っていい、くらいずっと一貫して長年これが鎮座している、気がする。見るって言っても見方はさまざまですが、スポーツ見てる時が一番いろんなことを思いつく。

 単純に、この劣勢から立て直す気力って並みじゃないよな、とかそういうところに惹かれているんだけど、歯車がかみ合ってない感じのとこからすっとかみ合う方にもってった時の、っていうか持ってくこと自体がすごいんだけど、そうなったときの一体感みたいなのがやみつき。スタジアムに行く理由なんかはそこですね。ファンの人たちの盛り上がり含めてのあの一体感ってテレビ観戦だと同じようには体感できないので、どうにも説明のしようがないんだけど気持ちのたたみかけ感みたいなのが可視状態になる、ような感覚なんだよね。お好きなチームがある方はぜひスタジアムのあの感覚を体感してみてほしい、と思っちゃう。普段は全然別のことをやってるそれぞれの人たちがたくさん集まって、ばらばらだったはずの意志の方向性が一致する、なんて普通に生活してて見る機会は多くないけど、スタジアムにはそれがあるから。

 今現在はFC東京のSOCIOで、野球は広島東洋カープを応援しています。サッカーに行く機会の方が多いので、野球は行く回数は減った。基本平日は野球をテレビで見て、サッカーある日はサッカー見て、というかんじ。結婚した相手がサッカーファンなので、お互いが好きなサッカーの日程のほうを優先している感じです。試合数がプロ野球とJリーグでは全然違うからね。サッカー見てるとき以外は野球見てる、という表現が正しい気がする。

 2022年の今、の感覚で話しますと、っていうか今振り返って思うのは、基本自分が個人的に応援してる選手って「見てるタイミングで活躍する人」とか「個人の活かし方っていうより全体のバランスを結構見てる気がする」って思う人とかだったりする、結果的に。

 これは、なんかこの選手応援したい、ってなった選手の言動を長期見ることになるので、この人はこういうことに重きをおいているらしい、っていうのが次第に色濃くなっていくのでわかることなんですけど、なんだか皆共通して、目立つところでわざわざアピールしないけど、大事にしてるであろうことが結構自分以外の人のこと考えてたりする、ようなことだったりする。「チームの雰囲気が悪くなってほしくない」とか「競技やってる子供たちの夢をなんらかの形で応援したい気持ちが強い」とかね。違う立場の人のことを頭に入れてる感じが強い選手って単純に人として信頼できるから、何年でも見てたいな、と思うからそういう面に気づいちゃうと気持ちが離れなくなる。現役選手でも、この人が指導者になってからどんなチーム作るかは見たいなあ、って思う選手もいる。

 いい大人になったから思うことですけど、なにかの技術に長けている人、才能が秀でている人、いろんなジャンルでたくさんいるけど、才能って結局は何かを表現するための手段であって、それが最終形じゃないので、なにかに秀でてるけど人として信頼できない人を尊敬することはないです。特別な才能があるとか、それで仕事ができる人だとしても、それ自体で特別に敬うことは自分はない。それをどういう風につなげて誰かのためやこの世界のなにかのために生きようとしてるかが問題だし、それのためには自分が特別視されて当然と思ってるだけの人はどうでもいいかな。それより、そこにある組織とか、その仲間になることを目指してる人がよりよく生きるための橋渡しや環境を整えることもちゃんと考えて仕事や役割にあたっている人のほうに目が行く。

 自分がこんなにできるんだから、自分が一番なんだから、だから自分はすごいってことに固執してる人に興味関心を持てないのは、アスリートの切磋琢磨とか見てるからかもしれない。一番の人だってすぐ脱落するし力を発揮することも一定でいられない世界だから、それでえらぶることにエネルギー使ってたら落ちてくだけ、って知ってるから、それを知らない人の言うことは、あとあと経験で変化する可能性があるからその時点では鵜呑みにはできないな、ということ。

 そう、ここの数年で変わったことというと、「広島カープの選手でお気に入りができた」ってことなんですよ。

 優勝が久しかったころ、誰が出ても均等に応援したいという理由で誰かひとり、とかは応援してこなかったの。でも、三連覇とかもして、その後ふるわない時期がきて、以前と違う環境になってるからそろそろ解禁してもいいかなと思ってるとこに目に入ってきたのが坂倉将吾選手でした。

 経緯は長くなるから省く。ただ、「もうちょっと活躍してくれたらその時は注目しよ」って都度意識して思ったのを、三回は凌駕して結果出してくれたので、じゃあもう、私にとって大事なチームの大事な1枠はアナタに決めた、ということで今は坂倉グッズだらけ、になっています。彼はまだ若いので、どういう野球人生を行くのかは本当に楽しみ。 

おまけ-自分に似てると思うキャラ

 最近までそういうのが全然思いつかなかったんだけど、この子と出会ってからはだんとつコレだろ、と思うようになりました。

どうぶつの森シリーズ(ゲーム)に出てくるバーバラというキャラクター。

↑ 見た目も思考も行動も似てる気がする。彼女のお部屋、赤いグッズばっかりですからね、カープファン的には親近感しかない。

ここにも書いた↓


やっぱり私の分身だね! と思うセリフ。
ほんとそう思う。全くおんなじことキミに言いたい。
説明の必要ないな、私のことだこれ。

本気でおんなじようなことを普段言ってるような気がするんだが… さすがに外では寝ないけど

この子の場合、ゲーム中でよく歌を歌ってる描写がありますが、私も気持ちがすっきりしたいときとかは一人カラオケ行くのが好きです。で、そこで録音した音源から自分の歌のパートだけ抜き出してこの録音状態の悪いものをどれくらい聞きやすい状態に戻せるか、とかをizotope社のソフトなんかでいろいろこねくりまわすのが趣味です。(カラオケの壁は音が反響しやすいから、ボーカル録音のために使うとしたら適していない環境だと思います、反響音を消す作業が必要になるので)

 そして既存のその曲の歌い手さんの歌だけを消して自分の歌を貼り付けて違和感をどうやったら減らせるかとかケンキュウするのが楽しくてしょーがない。こういうのってこれに使うという目的があってやってるわけじゃないんだけど、「こういう設定をかますとこういう変化をしてこういう結果になる」っていうのを体感するのが面白い。

なんとなくまとめる

前回の自己紹介書いたときと変わった部分は、自分の自己分析に「どうやらこれをこうしたらこうなる的なことをシミュレーションすることが異様に好きだ」という傾向がよりはっきりしたような感じ。

 写真なんかでもそうなんですが、「これをこうすればこうなるんだから考えずにこういうふうにしなさい」と人に言われてもピンとこない、っていうか「それを実験するのがもっとも楽しい部分なのに…」って残念になっちゃうの。私は出来てる人形を飾りたいんじゃなくてプラモデルを組み立てるところから楽しみたいの。だから人から見てうまくできたかとか素敵かとかはそんなに大切じゃなくて、自己満足でやってることなんだから自分が満足するのがとても大事、そんなかんじ。これは仕事とかだと通用しない概念ですが。

 前回の記事の頃からちょうど世の中が閉鎖的にならざるを得なかった時期を経て変化があったとすれば…キライなものはよりキライになったかも 笑
…表現悪いですね。なんというか、違和感はちゃんと大事にしよう、と思ったというか。

 普段機嫌が良いときっておーるおっけー、みんなちがってみんないいじゃないとか酔ってもないのに言いたくなっちゃうみたいなテキトウな性格なので、違和感を大事にしないと「そこから先は道が違うと思う」っていうとこを踏み越えちゃうんですね。

 世の中がシビアだった時ってそれなりに自分の判断間違えないようにしないと、って気持ちが働いてたので、人の言う「これくらい大丈夫」は全く信頼できない。正しいっぽいこと言ってる人でもしばらくしてくると見通しが違っていたり人をけなしてまで主張するほどのことか?っていう面が垣間見えたり、自分の価値観みたいなものと向き合わざるを得ないことが多くあったように思います。もちろん自分自身の見通しの甘さとか考えの方向性の甘さみたいなものとも。

 だから、感性を仕事にしている人の「いい加減さ」がそれまでより「まあ仕方ない」って思えなくなったりはしてます。この人たちの語る物事が世のデフォルトになるとそれを指標にする若い人やその意見やら作品やらを心に必要としている人が不憫だなとも思います。

 例えるなら、お祓いする仕事の人がお祓いの効果がないことなのに高いお金をもらってやってるようなものです。

 それは仕事にはなってない。だけど、それが「出来てない」ということをやってる本人がわかってないのにお金とってる、みたいなこと。(わかっててやってるなら、人の心を掌握するのがうまいですねってなってくるので、ここではちょっと話が枝分かれするかも)
 
 例えが極端ですが、こういう見えづらい部分のことを見抜くには違和感を大事にしていくしかない。

 実際は何かを信用したいからこそ違和感を無視するんだけど、それを続けていると自分は本当はこういう道に行きたかった、が見えなくなっちゃうなー、ってのはこの数年で実感したことの一番色濃いところです。自分がこっちに行きたい、って道には折に触れ引き戻されるような形になるので、そのたび道が険しくなったり遠くなったりしちゃうんで、それはもういい加減避けたい。

 若い時ならまだそれも経験っていえるかもしれないけどね。年齢上がると体力がシビアになって行動範囲に制限がついてくるから私はこれ以上はもういいやと思ってます。いざ動くときに動けない、っていうのは困るからもうこの年齢では傷や遠回りは深くしないほうがいいと思っている。

 人って名前のついてないものには価値を見出さないし評価もしない、やってることもゼロとみなしがちなんだけど、その人にしか見えてないなにかってそれぞれ存在するかもしれないっていうのは誰に対しても言えることなんで… そういう、いつかなにかにつながるかもってしれないからって感覚を大事に生きましょ。行きたい方向なんて自分にしかわかりようがないもんね。

↑言ってることはかっこいいんだけど、それ身に着けてるときに言うんだ… ま、概ね同意なんですけど。


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