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白黒つけないほうがいいって話

 最近気が付いたことなんだけど、商業施設などでトイレを利用しようとすると高確率で誰かの忘れ物を目にする。

 見てしまったものは見てしまった、ということで近くのお店の店員さんをつかまえて状況を説明するんだけどどうもうまく伝えることができていない。「忘れ物かもしれないし、ゴミかもしれない」みたいな釈然としないかんじ。だって、お店の袋に入ったものを自分のじゃないのに必要以上に覗き込めないし触るのもなんだか後味悪いかんじだから結局ちゃんと確認しないで報告して「確認してください」と頼むしかない。

 店員さん側も構えるのよね、こっちの言ってることが釈然としないもんだから。でも以前落し物だと思って報告したけどどうやらゴミを入れただけの袋を置いてったようでそんなのほっとけばよかったのに(なんて店員さんは言いませんが)なんてことがあったからどうも断言できない、落し物があった、なんて言い方では。

 先日は洗面台に誰かのメガネがおきっぱなしになってたので「うわー ここから近くの店舗って若干距離あるし今疲れてるしめんどくさいな、スルーしたい」と思ったんだけど、廊下に出たらちょうど清掃員の方がいたので報告したら、「わざわざありがとうございます」と笑顔で言ってくださったのでずいぶん救われた。
人によっては対応はしてくれても「そんなこと報告されても自分の管理下じゃないし面倒だな」って表情の方もいらっしゃるので(広いところでテナント多いとかだとそこはうちとは関係ないエリアです、ってこともあるんだろうし、その時の自分の仕事もあるんだろうから仕方ないだろうねとは思う。思ったことを顔に出すなって言っても…人間だし多少は仕方ない )そんな表情をされたことに対する「悪かったかな」と「いや悪くないだろ」っていう自分の中のやりとりと対峙しなくて済む安堵感ですね。

 そもそもなんだろうと思うわけ。
なんで自分が悪いことしてないのに悪かったかもしれないと思わなきゃいけないんだ? ということ。でも、自分が正しいことしてるんだからといろんなこと押し通して良いことした顔してる人ってあんまり成長がないし結果的に人の細かい気遣いを潰してても気づかない。頭の中が臨機応変じゃないよな、それは。

 このケースだと忘れ物をお店の人に言うか言わないかってことが発端になってるんだけど、それを報告すること自体は迷惑行為ではないわけで。だって自分が忘れ物したとしたら、間違いなくお店に問い合わせるでしょうし。そこで保管しててもらえたならまず安全だ。置きっ放しのほうが届ける意志のない人に持って行かれる可能性が高い、と思う。(一概には言えませんけど、一般的に確率が高いか低いかの話)

 結局、こういうことってこれをしたら正解とか間違いないという話じゃなく、対応ってケースバイケースでその時その相手によって快不快が変わるからそこを見ながら相手の許容範囲内におさめる意識が大事ってことですよね。

 概ね正しいという行為でも相手にとっては面倒な場合もあるし、その逆もある。同じ相手でもその時その時で心象が違うこともある。

 悪いか悪くないかで考えるとどちらかが正しくないと答えがでないのでどっちかにしなきゃいけないかんじになるけれど、本来は許容範囲内にとどめる、が目的なので悪かったかも、でもそうでもないかも、と どっちからも考えてバランスとってく、のでいいのだと思います。お皿の中身がどちらかに傾いたら逆に向けてみる、そしてまた逆側から傾けて…を繰り返してようやくバランスをとる。そんなイメージ。なんでもそういうプロセスが必要なのかもしれないです。必要ないものとして捉えていると「正しいことをやったのに」っていらいらしてぶつかっちゃうことが増える。でも、そもそも必要なプロセス。その捉え方がいいかもしれないなと思います。めんどうっちゃめんどうだけどね。

 私、「自分がこんな状況にあるのだから周りが理解してほしい」っていう発信が好きじゃないんだけど、その意見自体が正論だなと思ったとしても違和感が残るのがなぜなんだろうと考えた。

 「自分は悪くないからなにも変わる気はないのであなたが変わってください」と言われてるみたいに感じるからなんでしょうね。

 言ってる側はたぶん無理強いしてるつもりなんて微塵もないって人もたくさんいると思う。同じ状況の人のためにわざわざ言ってる場合も多々あると思う。
 でもその一言で終わっちゃうと、「じゃあ自分のことも理解してください」と他の状況にある人から言われてしまって「理解してください=理解しないなんて人としてどうかと思う」の項目が世の中に増えていくだけなの。世の中がそんな方向に極端に傾いていってる気がする。

 理解されることが大事なんじゃなくて落とし所を自分でみつけることを最初にするのが大事だと思うんだ。

 世の中の賢い方たちはそういった場合も人に理解してほしいと表現するより「どうすればこの状況下で自分が困らずなるべく人手を煩わせずに切り抜けられるか」を色々試して知恵をシェアしている、ように感じるし、「人手をなるべく煩わせないように」、と思うところに「いえいえ、協力しますね」と思う気持ちが生まれるのも確かだと思う。

 それは複数の人が役割分担しながら「この状況ってどうあったらもっとよりよくなる?」「だとしたらこういう方向もあるよ?」と提案を重ねているようなもの。便宜上「たすけてもらった」「たすけた」みたいな立場には分かれてしまうかもしれないけど、自主的に参加してるという面では「いえいえ協力しますよ」と思うほうが「言われたから協力させられてる」という感覚のときよりは良いアイディアが生まれるケースが多いと思う。

 “世の中の賢い方たち”という表現をしましたが、そこは賢くないからとか勝手に言わないでまだ読んで。理解してと言ってしまいたくなる気持ちがあるときは考える時に最初にこんなことを意識してみるといいと思う。

 「自分は悪くないから仕方ない」を最初にもってきちゃうと「自分は変わる必要なんかない」と思ってしまう流れになりやすい。そもそも悪いとかいいとかいう物差しで測れることじゃないにもかかわらずそうなる。そこに頭をもっていかれちゃうとなんでもかんでもそういう思考になっていくので意識してその流れを止めてあげないといけません。思考ってそういうもんです。その先にはどんどん自分の世界が狭くなっていく感覚しかなくなっちゃうから注意が必要です。

 「理解してください」と表現するよりは「余裕があったら思い出して力をぜひ貸してほしい」くらいの感じで表現すると喜んで力を貸してくれる人が意外と近くによってきてくれる。

 理解されないとつらい、のは真実だけれど、理解されていないと思う判定基準を自分から拡げていくこともない。

 「自分は変わらなくていい」「あなたらしく」というのは受け取り方によっては毒になる言葉。ピンポイントでこのライン、じゃなくて互いに許容範囲内で、っていう感じがたぶんちょうどいい。

 ところで人の忘れ物によく遭遇する、とは書きましたが、自分は家の中で自分の持ち物の置き場所をよく忘れます。それには遭遇できないんだけどどうしてなんだろな。

誰かの心の平穏やきらきらを取り戻すお手伝いがしてみたい。