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10年

 あの時いろんなものをなくした。

 命があるんだから苦しみのうちに入らないなんて他人に簡単に言われることじゃない。そう思うとすれば自分を鼓舞する時にだけ使う言葉だと思う。この時に限ったことじゃないけれど、こういう言葉を自分に対してかけてきた人たちのことを私は生きてる間は許せることはないと思う。

 その日の東京は、どこに比べればましだとか、そんな風にひとまとめに言えるような感じじゃなかったと思う。その人のいる場所、おかれた環境によって狭い範囲内でも全く違う状態だったように思う。

 うちはその時は建物の11階だったから、東京23区の記録に残っている数字よりは体感の揺れは大きかっただろうし、もっと高い場所にいた人の恐怖はそれ以上だっただろうと思う。高層階にいたであろう人の恐怖は全く想像がつかない。

 仕事部屋がだめになった。天井から割れた照明の破片が叩きつけられる音を忘れていない。同居していたその時の家族は普段「自分のことは自分でなんとかしろ。こちらを煩わせるな」と言う人だったので「そんなことくらいで連絡するな」と怒るだろうと思って連絡をしないでいたら、向こうから連絡が来たので極めて大きな事態なのだろうと思った。

 窓の外を見たときにいくつも煙が上がっているのを見た。夫だった相手が帰ってきて部屋を見て、思った以上に揺れが酷かったようだね、と言った。マンションの水道設備が壊れて一時的に水が出なくなり、この部屋にいても危ないからとマンションのロビーに降りた。同じように集まってきた人たちと、建物の前の道にタクシー待ちの長蛇の列ができ始めたところや近くのオフィスで働いているであろう人たちが列をなして歩いていく姿を眺めていた。

 「それでも仕事をしないといけない」のはその時のうちばかりでなく近所に住んでいる人たちもそういった立場の人が多くいた。その日お話をした方は、実家がおそらく大変なことになっている地域で、親と連絡がつかないから心配だし、現在の家族もここに置いていくのは心配だけどどうしてもこれから職場に戻らないといけない、と言っていた。都心のオフィス街にある住宅で、このシステムが止まると日本中が困る、という職種、そういった部署で働いている人がたくさん住んでいる場所だった。国全体に影響させるわけにいかないから、被害がわかっていても家族のもとにいることができない。そのご家族に悲壮感というのは表面的にはなく、やらなければいけないから頑張るのだ、と笑顔で言っていた。

 うちも仕事を止めると迷惑をかけてしまう相手がいるので、その時は壊れた家の中をそのままにして地震の影響のない土地まで出かけていって仕事をしていた。幸いパソコンがあればできる仕事だったからそれが叶ったのだけど、帰りに買ったのは地域のおみやげではなく、トイレットペーパーなどの生活用品。

 そんな折にも世間では「こんな時にその場からいなくなるなんて情けない逃げだ」とか、都心にはシステムが止まれば地震と関係ない地域まで影響を及ぼす会社や機構が集中しているから実際停電になんかなったら全部が大変になことになるというのがわからないのか、都心を停電させないなんて不公平だとかいう計画停電に対する意見が多くあって心底呆れた。

 公平ってどういうことなんだろう、じゃあ一体誰が、被害を受けているのに仕事にまわらなきゃいけなかった人たちのフォローをするっていうんだろう。その人たちは自分が止まったらみんなの生活が困ると思って家に帰らず仕事してるんだけど、表面的な「平等」のために国ひとつ潰す気でいるんだろうか? と本気で怒りを感じたし、その時感じた怒りは正直今も消えていない。

 人の苦しみなんて、秤にかけてどっちが上とか下とか他人が決めるものじゃない。大変な状況にあっても、それを語らない人もいる。いくつもの物事を抱えた状態でもそれを知らない人たちに鞭打たれ何も苦労していないくせに、と罵声を浴びることもある。

 相手が誰でも、どんな職業の人でも、「あんたはなにもやってない」と外からしか見てない他人が断言できることなんてないと思っている。それを簡単に口にできる人のことは大事なことを決定するような場面で意見を聞くべき相手じゃない、と思っている。人の語らない物事の有無を「誰も語っていない」という理由で「ない」と同等に認知する人だ。想像力がなさすぎる。

 本当は、「ここが止まったらここに影響する」というのを個別に見ていくことで問題の早期解決に繋がるだろうし、放置することで多くの人が被害を被るであろう状況下ではすべての人の扱いを同じにするわけにはいかない。その問題の専門家を先に仕事しやすい状況にした方が結果的に全体が助かる可能性が高くなる。これはこの10年で全体認識が変わっていったのかな、と自分が思う部分。今我々がおかれている状況で、「医療関係者に先にワクチンをなんて"優遇"するな」なんて見方も処し方も錯誤したような意見を言う人は少ないはず(と思いたい)。当然のことすぎるので何故錯誤かなんて説明はしない。

 人って、崩れていくときはわめき声をあげたりなんかしない人のほうが多い。大丈夫と言ったまま、静かに倒れていく。

 誰かのためにと奮い立たせて頑張ろうとしている人たちの心をいたずらに壊したりしないために、想像力って必要だと思う。

 そうやって頑張ろうとしてる人なんだよね、いつでも誰かをたすけてくれてるのは。今の自分の生活がちゃんとあるのは、大変なときに淡々と仕事を続けてくれた人がいたからだと思う。そういう人たちが安心して休める世の中を作れたらいいなと思う。

 

誰かの心の平穏やきらきらを取り戻すお手伝いがしてみたい。