見出し画像

相対的な幸福感

 先日、「今年中にもう一回は会おうね!」と前回会ったときに言っていた友人とアフタヌーンティに出かけた。リーズナブルではないけど行ってみたいから一緒にいかが? と誘ってもらったのだけど、以前ここは良いと他の人から聞いていて行ってみたいなあと思っていたアマン東京とのご提示だったので、これは行きどきでしょう!と喜んで行ってみた。

画像1

 クリスマス時期なのでこんなお菓子。全種類食べていいのかと思いましたけど、ここから4種類のチョイスです。

画像2

 甘くないフードはこういうかんじ。詳しいことは聞いちゃダメです、わかってないから。お野菜なんかはきれいにクリスマスっぽい柄に切り抜いてあるの。写真にはちゃんと写ってないけど、トナカイだったり、雪の結晶だったり、クリスマスのジンジャークッキー(という表現でいいのでしょうか、人がたのやつ。)の形だったり、ブーツだったり。

画像3

こちらのスノーマン、ホワイトチョコでできてるんです。ふたをあけると中からフルーツとかいろいろ。ちなみに、スノーマンを食べようと解体したあたりでお時間となってしまい(制限時間は150分。充分な時間なんですけど、喋ってるのであっという間。)なんだかかわいそうな感じの姿にしてしまった感じ…写真はないです。

 同じくらいの年代の友人。いろんな話が出ましたが、なんとなく違和感があるけど気になる自分は狭量なのかなあと個人的に思ってなんとなくもやもやしてることなんかの話をして、お互いで「それは自分も気になってた」と意見があったり。

 世間ではこう、っていうのを暗に押し付けられるっていうかんじのことと、でもこれくらいはちゃんと考えなきゃいけないだろうね、っていうことのバランスのとり方、みたいな話。

 明らかに無理なことは誰かの顔色を見て行動する必要はないけど、「自分の好きにすればいいんだから」を押し通して他の人にまでそれに賛同しろという態度でいるのはちょっと違うよねって話に落ち着いた。

 「人に迷惑かけなければいいじゃん」の範囲が人によって違うのも確かだ。それ、明らかに人が気をつかってくれてますよっていう状態になってるのに「迷惑かけてない」と言い張る人もいる。それは「迷惑かけてないからいい」には相当しない、と多くの人が思う状態になってる…と客観的事実はそんな状態じゃないでしょうか。←主観じゃないことを強調しようと思うと文章がすっきりしないね。

 自分より年上の人には「この年齢なんだからこれくらい分別があって当然だ」と考えるけど、自分に対しては「まだ若いんだからいい」とか「好きなことをするのに年齢関係ない」をいつも容易に使いがちですよね、たぶんみんなそう。私もそう。

 自分に甘く他人にものすごく厳しくなってないだろうか? っていつも考えてないとすぐ道を外れる。正しいことをしてるつもりで人をものすごく追い詰めたりしちゃうよね。全ての人にいろんな事情があるから、一方を立てれば一方が我慢を強いられることもある。だからひとつのことを「世の中が正しいと言ってる流れだから」という理由で「こうするべき」という主張をする前にどういう状況でそうなったのかをきちんと把握しようとすることって大事だと思う。(本音を言えばそんな当たり前のこと言わずして分かれよ、ってところなんですけど、人間一個のことに固執すると他のことをすぐ忘れるので相当慎重に抜けがないかと確認しながらやるくらいデリケートなことだと思います、本来はね。)

  SNSばかりじゃなく、ネット全般、ニュース記事的なものですら「そんな極論どこから出るんだ」とか「文章に書いてあるのと違う解釈をして怒ってるコメントはなんなんだ」とか思うことが多い。論点がずれているのに言葉上のどこかに反応して「◯◯はいけないと世間では言っている」とコメントする人って少なくない…少なくなさに驚く…っていうか元の記事のどこかの言葉から連想するなにかの話が勝手に派生していて、元記事を提供した人にその派生した話をぶつけてるんだろうなっていうやりとりもよく見るんだけど困っちゃうのは派生した話をしていることを自覚していないっぽいケースをよく見ること。わかっててジョークで返してるんじゃなく、本気で「あなたの話はどうかと思います、どうかわかってください」と言ってしまう…みたいなのはなんでこういう流れになってんだろうと思うんですよね。

 「誰かが困ってしまうので、ここは追い詰めず察しましょう」みたいな考え方って察する側の人間が親切心的な感じで譲歩している意見、なのだけど、「私が困ってしまうので みなさん! 私に寄り添ってください! 言わずしても察してください!」って、察してもらう側が言う意見じゃないです。どんな困っててもそれはマナー違反です。「困った時は意思表示をしますから、余裕があったら協力してもらえるととても嬉しいです」なら聞いてくれる人も出るだろうと思います。

「自分からは言いたくないけどわかってください」はどんな状況でもとにかくダメね。思ってると自分が不幸になる。言えばわかってくれる可能性があったことも言うことをしないからわかってもらえない、それがそのうち「誰もわかってくれない」に変わるとすれば、かなり損です。

 言えばわかってくれるもんでもないので、わかってくれる人が一人でもいたらすごくラッキー、って捉え方の方が無難だし不幸になりません。人の痛みなんて経験ない人にはリアルに想像できるもんじゃないから、わかろうとしてくれる人が一人いただけでラッキー。
「そもそもそんな世の中おかしい」という全うな意見もありますが、そもそもそんな世の中がおかしいので一人いただけでラッキーなんじゃない、不幸だ! みんなわかれ! と思ったところで幸せになれません。そんな世の中おかしいとみんな思うようになるには次の世代くらいになってるといいね、ってことで人にわかってもらうことを求めないで自分が次世代のためになにかできることはないかなあと常に考えるくらいしかないと思う。それを考えていることで同じ考えの人にも会いやすくなるし、人の親切心にも気付きやすくなるから相対的に幸せになると思うけど。

 ネットのみならず、「自分に賛同してください」とか「察してください」が強い人ははたから見てると「何言っても地雷」になりやすい。寄り添いたくて言った一言、なにか元気になってほしいから言った一言が「気に入らない」となって他の人に「こんなひどいことを言う人がいた」って名指しで報告されちゃうんだからたまったもんじゃない。

 人を傷つける権利なんか誰にもない。それと同様に自分の機嫌に寄り添ってほしいと要求する権利もない。「 人をばかにするな」っていうのと「自分の機嫌をとれ」っていうのは全然別のことだもんね。

 …正義感と承認欲求がごっちゃになったりして、承認欲求が強い傾向のある人ははたから見ると分別ない感じになるから自分らも気をつけよう的な話に落ち着いた。そういうのって人から見ると一目瞭然でみんな気づいてたりするからな。

承認欲求の下地に正義感やら倫理観を使ってはいけません。
これ、年齢に関係なく大事だと思う。
あと、人と比べて幸不幸の判別してる人は人から見てすごくわかる。指摘されないのは、指摘しても指摘した側が攻撃されるのをわかってるからであって、賛同してるからでは決してないってこと。

 そんな話を友人としましたが、定期的に思い出さないと調子悪い時は傾いちゃったりするから、自戒のために定期的に思い出そうと思います。

画像4

自分を甘やかすときは、おいしいものを食べるのがいちばんです(私の場合)。 

誰かの心の平穏やきらきらを取り戻すお手伝いがしてみたい。