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同じ方向を向くには、前提条件があると思う

 今日はなんともすっきりしないお話の入り方から。

 時々、この世界はどうあったらみんなが幸せになれるのかなあって考えたりするんだけど、なかなかこれっていうのが思い当たらない、というか言い切れるものに辿りつかないの。どんなことも一長一短で。

 世の中には色んな考え方があるから、それらがまず「在るもの」として認知されて他者の考えを脅かさない絶妙な位置でそれぞれ存在してられる関係性だといいなって思うんだけどまあ全体がそうであり続けるのは難しいよね。

 これが正しいと思う事を通すのはいいけど、それが他者の正しいと思う行為を阻害しない、ってなかなか成立が難しい。

「1の懸念」の拡大解釈

 自分はこれが正しいと思う、あなたの考えた方法では1の懸念が生ずるので却下したい って誰もがなりがちなんだけどこれも当然ダメ。自分の正しいを100%通したいからあなたが道を譲りなさい でしかないの、この時点では。1の懸念から解放されるために9あるかもしれないメリットは無視しますと言ってるのと変わらないので違う考え方の人を納得させられません。メリットって基本興味がある人にしか説明出来ないものだから、興味が薄いせいでメリットを感じてないだけってことはよくある。(メリットを誇張する人ももちろんいますから、片側の意見だけではいずれもフラットな情報にならない)

 で、こういうのが無数にぶつかり合うので解決策が話し合われないまま堂々巡りになる。

 「1の懸念」がどれくらいのリスクであるかってことを理論的に説明して、メリットと比較しても懸念材料の方が影響が大きい、ということを具体的に皆がわかるようにデータを提示しなければ意見としては難しい。感想と印象で話してる域を越えてない。

 一個人の感想として、お茶の間のお話としてはOKですが、世の中を動かす土台にしちゃあダメだろ、っていうレベルの話。自分の立場を越えて反対側の人も困らないようにってことを考えないと世の中の土台にはなり得ない。

堂々巡りじゃ解決策に辿り着かない

 1の懸念を主張して却下することで堂々巡りになるから話が進まないってこと、いまいちピンと来なかったらこの文章をピンと来るまで読んでみるといい。100回読んでもピンとこないと思います。それが堂々巡りの構図。

 つまり、違う考え方の人から見ると「これが良い」も「これが悪い」も「それはメリットよりデメリットの方が大きい」と映ってしまうわけ。だから正しいと正しいがぶつかって堂々巡りになる。

 だから、そこは一旦置いた上で、ここまでなら可、OK出せますってラインを全体で探るのが良いと思うんです、色んな意見の人が一緒になって。全員の目的は「どこまでなら可なのか」を提示すること。それはそれぞれ立場が違っても全員が同じ。

 でも、どうもそういう話し合いにならないのよね。1の懸念で全部無しにすることはある種の思考停止なので、それはやむを得ない時、状況がわからない時に暫定的措置としてすること。データが揃わない時にやると効果があること。

 加えて、一般的な話し合いだと「自分個人のメリットデメリット、興味のある無し」を世界全体のメリットデメリットと挿げ替えて主張することが少なくありません。知識が比較的ある人でもわりとナチュラルにやってます。てことはこれでは「世界全体が幸せに」ってとこは辿り着かないよなあ、って思うわけ。

肯定から入ることの大事さ

 世界って個人個人の捉え方で変わるから、その人が存在しないと思うものはその人の世界の中では存在することができない…のが人生だと思う。だから、どの範囲で肯定するか、で考え始めないと世界のあらゆることは進まないっていう法則がある気がする。

 やれる範囲でもの考えると、結果的にリスク回避出来るようなアイディアいっぱい浮かぶけど、どうせ到達しないって気でやってることって工夫も浮かばなくなるよね。

 何事もやるかやらないかを決めるのは後じゃないの?やるデメリットを正確に算出できない状況ならば確実にデメリットをメリットが上回る部分をデータから算出してやれる範囲を明確にすることが順序としては先です。

 何を始めるにもまずそこを通らないと出来る出来ないなんて印象や気分以外で語りようがないもん。
 
 いつでも何かを始められる準備はしておきたいよね。

 それが個人的にも出来てれば少しはみんな幸せ、というか不幸感がちょっと遠くなるのかなあ。

 そんな気はする。

誰かの心の平穏やきらきらを取り戻すお手伝いがしてみたい。