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いろいろ背負ってやろうと思うことも、チカラにはなると思う

 サッカーの試合観戦の話を書きたいんですけど、どうしても向き合っとかなきゃなーってことが起きたので、そこから。

 楽しくない話題だし、スルーでいこうかなと思ったけど、大事なことの気がするから、これだけ別記事にしてふれる。

 先日、FC東京から3月21日の試合後に2選手の規律違反による謹慎が発表されましたが、試合に勝った喜びがとんじゃうくらいはショックだったし、うちのだんなさんは大層お怒りでしたね。

 えらそうなことは言えないけど、彼らのことを本当に信じて期待して本気で応援してる人たちにかけてもらった言葉やまなざしを、できる限り思い出してみてほしいなあ、と思った。

 私は彼らは年代別代表に選ばれるんじゃないかと思ってたし、そこに名前がなく、試合のメンバーにも名前がなかったので怪我でもしたのかと思ったくらいだし。応援してる人たちはきっと心配した人、いるんじゃないかな。

 自分に期待をしてくれて、周りで尽力してくれてる人たちのことをわかろうよ、って言っても、「期待されてるからって、だったらそれが何?」って思う人も世の中にはいるだろうと思うし、ある部分ではその通りだとも思う。

 「人の期待に過剰に応えようとしなくていい」っていうのは最近自分を守るために聞く機会が増えた言葉でもあるけど、その状況をどう捉えて自分の未来の糧にするかっていうことはその人の感性次第で自分の力にできることだと思うし、応援する人がいて成立してる世界で生きたいのならば人の期待を背負って自分の力に出来る感性は持ってた方がいい。

 私自身は、自分はこうだからこうする、というだけの範囲しか見てない人よりも、周りの人の気持ちも背負っちゃうような人の方を応援したくはなるし、幸せになってほしいなって心から思えるのは後者なんだよね。スポーツファンに限らずそういう人も少なからずいると思う。

 チャンスってさ、いつもあると思ってふいにしておくと、二度とこないって性質のものもあるんだよ。不可能なんてない、なんて言うけど、我々人間には残念ながら寿命っていうのがあって、同じ状況を作るには時間をかければ不可能ではないけど、その時自分が生きてるかどうか…みたいなところにかかってきちゃう。プロアスリートでいられる時期はそれよりもっと短いから、不可能なんてないって言葉にしがみつくことでそこにあるチャンスを自らで逃さないでほしいんだよね。

 まあ、この件で思うのは、この2選手のみならず、みんななんとなくこういう社会状況に慣れてきちゃって、最初の頃みたいな緊張感を保つのが難しくなってることの裏付けでもあるよね。当然我々一般もそういう状況に近いかもと思う。

 ここからは謹慎の件だけじゃなく、一般的に言えること、として話す。

悪ではない、けど

 やらなくてもいいこと、そういうのはその時代の論調でいろいろ変わっていくものだと思うけど、人の立場や気持ちを想像して背負うようにして生きていくことを選んだ人にしか見えてこない道もあると思うよ。「そんなことしなくても生きていける」って簡単に言う人の言葉に耳を貸さずに、「必要だと思うからそうする」を貫いた人にしかわからないものはある。それぞれの思う必要を貫くからそれぞれの人生になるのであって、効率よくうまく生きることで人生や人間性がプラスに向くとは言えないと思う。

 「自分を貫く」のと「自分以外を考慮に入れない」は全然別のこと。キャパオーバーなら見る範囲を狭めて、それに慣れてきたら見る範囲を広めていく、変化の上にあることだから、「自分しか見ない」というやり方を固定するイメージをしてしまうと意味が全然変わってくる。

 でも、別にいいんだよ。見える範囲は人それぞれだから、見えなくても悪ではない。

 でもね、人それぞれであることが許容されるからこそ、広い範囲を見ようとしている人の行先を、見ない選択を自らしている人が邪魔するようなことがあってはいけない。それは人があまり認識しない概念かもしれないけど、罪なことだと思っている。悪じゃないからいいや、って拡大解釈してしまいたくなるようなことの中に、命取りになりうる判断って結構隠れているよね。

想像できる範囲の広さによって変わること

 一般人はやっても見逃されるけど公人はダメ、って一般人自身が言うのはなんだか卑怯な気がするのでもうちょっとちゃんと考えないといけないことだと思いますけど…これは全ての人に言えることなんだけど、今の地位とか立場とか環境とか、それぞれあるのも自分の力だけじゃ全て無理なわけで。

 子供の頃からご飯食べれたのとか寝る場所があったのとか、全部親や先祖のおかげでもあるし、仕事があるのだって仕事くれる人、会社作った人がいるからだったりもするし、全ての人が今の環境にあること自体は自分だけの力のおかげじゃないわけで。

 その、ひとつひとつの環境を作ってくれた人に一人一人お礼を言って回ることを想像すると、自ずと見えてくることがあるでしょう。そこでお礼を言う相手を色々思い浮かべてみて、たくさん浮かんできたらそのぶんが自分の心のキャパシティみたいなもんだと思ってください。そのキャパシティが狭い人はさっき言ったようにキャパシティが広い人の行動の邪魔をしちゃいけないのが前提なので、自覚なく邪魔してしまう可能性が高い状態にある、ということを認識しておく。(そうやって考えるように意識することによって自然にキャパが広くなるということです。)

 キャパシティが広くなると何がいいのかっていうと、意識できる範囲のぶんだけいろんなところから力貸してもらえる…ってことだから。血流が良いと体が温まってよく動くようになる、そんなイメージです。不思議なもんだけど、誰かの意識の中にあることだけじゃなく、運とか偶然に属することもそうやって回ってると思うんだよね。

 当然これはその時その時の状況によって意識できる幅が変わるものなので、「見る」「見ない」とどっちかに決めることじゃない。

 「こうでなきゃいけない」と「こうした方が更に良い」は別のことだし、当然人によって違うんだけど、見ようとする範囲が広い人の方が万人にとってつきあいやすいし好かれやすい、応援されやすい、っていうのはあると思うんだ。

 なんとなく思うんだけどね、何事も、広くしようとして行動したことによって更に何かが狭められる、っていろんな物事でよく見る現象の気がする。

 やっぱり、人の立場になって考える、っていうのは世界に必要な概念だと思う。それと共に「自分がやりもしないのに人が自分に都合よく親切にしてくれればいいなってのをまことしやかに正しいことのように言い続けること」でどんどん自分の世界が狭くなるもんだよなあ。意識してたいと思う。


誰かの心の平穏やきらきらを取り戻すお手伝いがしてみたい。