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客観視する時間をもつ

 自分を客観視する、って本当に大事なことだなあって話は既に何度もしている気がしますが、客観視が難しい場合、客観視する時間を作ってしまうっていうのはおすすめ。

 自分の場合、神社に行った時そういう時間の使い方をしています。お社の前にいって皆なにか神前でお願い事やら報告やらをする、あの時間。あの時間は「で、あなたは何をしたいの?」を問われてはっきりさせる場、のような感じです。お願い事をするにも「自分が何をしたいか」がはっきりしていなければ上のほうでも導きようがない。それは人の世でもそうだと思うので、頭の中で言葉にしながら「本当にそれがしたいの?」「優先順位が高いのはどれよ?」を整理していく。別に賽銭箱の前の真ん中でいつまでもやってる必要はないので並んでいる間に頭を整理したり、人が来たらちょっと横にずれて頭の中を整理していく。そもそも現代人は情報過多になりがちなので要らない情報をカットして頭を整理する時間って皆にとって大事だと思うんですよね。

 神社に行くと、なにか知りたいことがあるとき「今日この場にいる間にヒントになる出来事をください」ってお願いをしている。そうやって散策している間に目に入るもの、ふと気がつくことをつなげていくとこれはと思うものに当たったりする。私の場合は思いついてもすぐ忘れるので夫が一緒にいる時なんかは口頭で話して、さらにそのことについて対話の相手になってもらっている。

 そういう時間の使い方しているんだけど、面白いもので神社にいくときは多かれ少なかれ緊張するようになってきました。場所によっては面接に行く時みたいに緊張することもある。別に威圧的な空気がある場という意味でもないんだけど、それも含めて対話をしているような気にはなる。

 …というようなことを書いているけれど、私は「どこどこに行ったら神に祝福をされました♪」とか言えちゃうような人のことはやんわり言ってだいぶ苦手です。人に聞いてみると、見えないものを見る系の仕事をしてる人たちでも「スピリチュアルなんとかを前面に出してる人は、(よくない意味で)なんか違うなあと思う」って言う人は複数いる。これ、どういうことだろう。

 このへんもあくまでも言葉の使い方の好き嫌いなのかもしれないとは思うのですが、別におまえだけが祝福されてるわけじゃないだろ って反射的に思うのがまずある。その場にいる人何人いるだろうね?とか。もしもその人にしか見えない光を見た! としてもそれって結局なんのためかって言ったらなにもその人個人が自己満足で終わるためにあるものじゃなくて、その先につながってる役割を意識せよ、そのためにこちらを歩けってことだと思うんです。誰かのために、この先のこの世のためにその力を使えってことであって…。

 わざわざアピールして信憑性をもたせることで現実的に金銭の発生する仕事をしやすくなるとか、地位的な部分で説得力をもたせるだとか、そのためにしていることなのかな、とは考えるんだけども それを達成するために「祝福」とか「歓迎」という言葉を自分個人のために使っちゃうんだ、もっと言葉を大事にしようよ、と思う。歓迎されてるのはその先につながっている物事でもあると思っているともっと別の表現で人の気持ちを開くためにも言葉というツールを使っていけるんだけど。

 なにかを成し遂げるには極力邪魔が入らないようにしたいけど、力があればあるほど邪魔が入りやすくなると思うので力がある人はこんな表現はこわくてできないと思うんです、個人的には。普通のビジネスでもそう。力がついてくれば良い方にピックアップされるばかりでなく邪魔されたり目の敵にされることも起きる。お金や地位や発言力がある人にはいい思いをさせてほしい人がたくさんついてくる。経験上、あるいは他の人を見ていてもだいたいそういうサイクルが起きるので一般的な流れと言える。そうやってついてくるものを見極めて自分のマイナスの力にならないようにすることはだいぶエネルギーを消費しますので無駄にそういうものを引き寄せるようなことは避ける、と思っている。

そこの制御がしづらいのは目に見えないことだから故、なのかもしれないですね。答え合わせができない分野のことだから慎重になる人とそうでない人に如実に分かれて見えてしまっているのかもしれない。

 見えないものを扱う仕事をしている人に聞くと、結構あることだそうです。自分が開催したワークショップに参加した人なのにSNSには自分が主催者であるかのような書き方をして宣伝しているような方や力のある方とあたかも友人であるような書き込みをされるような方。その人たちは特に「能力」的なものがあるわけでもないのにそれを見た第三者が「この人は能力がある人」と勘違いして仕事をお願いしてしまうこともあり得るので、きちんと整えるべきを整えて仕事としてそれなりのものを提供している人にとっては困ること。虎の威を借る狐がいるせいで虎である人たちが存続できなくなってしまうのでは本末顛倒です。
答え合わせがしづらい系統のことだから仕事を頼む側、学ぶ側の立場としては慎重になるので不用意な言葉の使い方ひとつでも判断材料になる。能力があろうとそれがどこにつながるかわからないで不用意に言葉をつかってしまう人には本当の事情を話すこと自体危険。相談そのものを大切に扱ってくれない可能性があります。相談者が話したことを口外してはいけない、という認識がない人もいるかもしれません。不用意に自己礼賛に走りたがる傾向ってそういうことです。
天秤にかける間もなく自分の欲求を大事にしてしまう人相手には、自分の大切な相談をしたいとは思いません。

言葉を考えながら、やっぱり客観的視点は大事だなという結論に至ります。
こんなこと書いておきながら、自分がちゃんとやってないとなんの意味もないですからね…。とりあえず自身を直視することを段階的に怖がらないようにしないといけないな。

誰かの心の平穏やきらきらを取り戻すお手伝いがしてみたい。