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心の宿便を排出#1「平成のネット史から見る最近のイヤな風潮に対する所感」

多くの人が感じているであろう最近のイヤな風潮

最近ネットも現実世界も、窮屈で息苦しく、シャレも通じない生きにくい世の中に急速に変化しているように感じる。やれセクハラだ、やれパワハラだ、モラハラだ、不謹慎だ、取り下げろ、自粛しろ、謝罪すべき、ともはやハラスメントハラスメント、ハラハラじゃないかと思うばかりだ。勿論、平成も終わろうというのに未だに昭和の感覚を引きずっているような年配者にはやれやれと云った感じではある。ただ、急速に変化し意思表示を始めた現実世界に適応力の低いであろう年配者が叩かれるのは不憫ですらあるし、芸能人のスキャンダルへの異常な叩き方や、ちょっとした失言への炎上など、見ていてうんざりするのだが、

日本人ってこんな品のない、直情的で「あそび」のない人達だったっけ?

確かにフィーバー的に同じ方向に向いてしまう性質は元来よりあったが前はもうちょっと冷静というか、ただ眉をひそめるような、ひややかに見る雰囲気があった気がする。

と思ってしまう。

個人的に、このハラハラの蔓延する世界になってしまった原因は間違いなくこれだと思う。

スマホとSNSの出現によるネットの大衆化と、粗悪ネットメディア

平成最大の発明が世界を変えた

冒頭でネットも現実世界も、と書き始めたがかつてはインターネットは現実世界ではなく、自由なフロンティアだった。ところが少しずつ現実世界に侵食され、ついには完全な現実世界の一部と成り果ててしまった。

先月頃、NHKで平成ネット史を振り返る番組を放映していて面白かった。インターネットの一般化のきっかけはwindows95の発売だ。

個人の体験としてはパソコン通信などの時代にはまだオフラインで、オレンジ色の初代imacがネット初体験の相棒だったので1998年(平成10年)からだ。先ずネット回線を契約するためにマックを有線で繋ぎ、雑誌についているQ2のディスクで接続して、プロバイダの申込みをして、何やらややこしい設定をして、漸く繋げられるようになった。繋がっている間どんどん電話代がかかるので必要なページを読み込んだら一旦切ってサイトのコンテンツを読む、みたいな感じだったがそのうちにNTTがテレホーダイという夜11時以降翌5時まで繋ぎ放題という神サービスを開始した。

其のお陰で夜中はネット三昧でネットサーフィンでお気に入りのサイトを巡回したり、Diabloというオンラインゲームで外人に騙し討ちされて殺されたり、如何わしい画像をジリジリしながらダウンロードしたり、掲示板で見知らぬ何処かの誰か達とテキストチャットでゲハゲハ笑ったり、個人の趣味でウェブサイトを作ったり、時には喧嘩したり、オフ会で出会いがあったりと、夢中になるほどとても楽しく過ごした。

そんな中、国内のネットでは侍魂を筆頭とするテキストサイトブーム、フラッシュ動画ブームがあり2ちゃんねるなどの匿名掲示板の出現、mixi gleeの国産SNSの出現、そこからTwitter FaceBook Googleの台頭といった流れがあった。

此の辺りまでは良かった。大手のサイトなどもできつつあったし、サイバーポリスができたのもこの頃で、インターネットは匿名ではないと言われ始めた頃だと思うがまだ現実世界とは別で、SNSも今ほど雑音もなく、より濃密な情報をリアルタイムに得られる神のツールだったし、この不完全では有るが巨大な知の蔵を使いこなすものはそうでないものより確かな優位性があった。

だが、スマホの出現により世界は変わった。

スマホとSNSによるネットの大衆化、それを利用する粗悪ネットメディア

スマホは本当に世の中を変えた。

専門的な作業や仕事で使う必要がなければ、PC無しでほぼ同様かジャンルに因ってはそれ以上の能力を発揮したばかりではなく、世の中に浸透しある意味殆どの人の能力を拡張した。

SNSはこれまで世の中に伝わりにくかった市民の声を伝える拡声器となり、個人をメディア化し、弱者の声を届けやすくした。

それ自体は素晴らしいことだ。世界をより良くするツールであることは紛れもない事実だ。性的マイノリティや女性の地位向上、障害の有る方、その他のあらゆる弱者の声が届きやすくなったのは本当に世界は良くなったと思う。

だが便利なツールは良くも悪しくも役に立つ。

問題はプロ市民的な扇動家や工作員(左右問わず)、もともとテレビにクレーム電話をかけていたようなモンスターカスタマーのような人々の便利な拡声器になっている。

更に悪いことに粗悪ネットメディアがおそらく多くは意図的に、ごく一部の声をさもネット世論の総意のように記事のタイトルとして掲げ、無責任な記事で雰囲気づくりをして拡声器の声をスピーカーで垂れ流す。そうして確かに品は良くはないが何も撤去や撤回しなくても…みたいな物まで謝罪の上無難な何かに置き換えられる。

次第に事なかれ主義で無難なものだけが選ばれるようになり、攻めた面白いものは何も出来なくなる。

そうやって、窮屈で息苦しいつまらない世界が完成する。

ピエール瀧の件一つとっても、逮捕して裁判の上罪が決まりと罰を受ければ世の中としては社会的制裁を受けて終わるわけで、そこから彼を視たい人や音楽を聴きたい人がいれば売れるだろうし、そういう人が少なければ自然と淘汰されて世の中から消えていくわけなのでそれで良くない?と思う。

「不快だから目の前から無くせ」が罷り通るのなら、そういう叩いてる様を見るのも不快なので、控えてもらえないもんですかねぇ。


心の宿便でした。

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