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シンギュラリティとひとつの思考実験

ちょっと前に「シンギュラリティ」という言葉が流行った。日本語で「技術的特異点」と言うらしい。
主に、人工知能が人間の知能を凌駕するタイミングという意味で使われていて、悲観的な人はディストピアをイメージして怖いことを並べたていたと思う。
僕は人工知能という言葉を慎重に使うほうだ。それは三十年以上も前からこの言葉に親しんできたからで、当時すでに冬の時代を越えていて、その後も何度も冬の時代を迎えたことを知っているからだ。
知能というものがなにを表すかということにもよるのだが、悲観的な人が考えるような超人間的なモノが生まれるというのはまだちょっと早いだろう。今はたまたま昔から理論的に語られてきた機械学習が技術的に使えるようになって、コンピュータがちょっとだけ賢くなったというにすぎないからである。
技術の進展が速くなっているから、いつかは「超人間」が出てくるのだろうけど、そんなことを心配するよりもっと身近に心配したほうが良いことはある。
それは人工知能の方面ではなくて、ネットワーク技術という形をとって迫ってきている。
今はすでにインターネット前の時代は覚えていないという状況にあるが、インターネットを普通の人達が使うようになったのはまさに「シンギュラリティ」であったと言っていいだろう。インターネット前のことが思い出せないほどに生活のなかに根ざしてしまったということは、なにかが決定的に違っているのである。
例えば、本質的に情報の塊である本。これは流通形態が大きく変わった。書店も図書館もまだ存在はするけれど、今や青息吐息。書店でコーヒーを売らなければならない時代になってしまった。紙の本の愛好者はたくさんいるけれど、電子書籍は着実に増えてきている。僕は本好きだから紙の本や街の書店を擁護したい気持ちはあるけれど、Amazonに紙の本を注文し、Kindleで読む電子書籍の量は着実に増えている。
じわじわと進んだからなんとなく仕方がないというイメージがあるが、たぶん書店に雇われていた人の数は激減したはずだ。インターネットに仕事を奪われたわけだ。議論の余地はあるけれど、インターネット上の書店が街の書店よりも利便性が高いからそうなったわけだ。まだ興ってから間がないコンテンツのパッケージビジネス(ゲームとか映画とか音楽とか)にしても、物理的な媒体によらずにネット配信することが普通になったから、それらを販売していたお店はぐっと減ってしまった。
これらはそもそも情報を扱っていたから移動しやすいインターネットの中に移っていってしまったのである。
次にシンギュラリティが起きるのはなんだろう?
僕は「お金」だと思っている。
お金がネットワーク上のデータになって久しい。僕が物心ついた頃にはもうオンライン化は一段落していて、ATMというかCDが普及し始めていた。今は紙や金属の「お金」よりもデータのお金のほうが額は大きい。
「お金=管理通貨」は国家の基本要件を成すものであるから、国家の厳しい管理下にある。管理下にあるということは保護されるということと裏表だから、銀行はほぼデータを扱っているだけなのにいままで生き延びてきた。とりあえず銀行には与信機能があるとか、そういうことは置く。
僕たちはお国が保証しているお金の価値を信じている。特に日本人は顕著らしいが、「現金」が一番安心という信仰がある。
それがそろそろゆるぎ始めている。
というのは、「お金」のほとんどはデータで、インターネット上で移動できるといいうことが徐々に知れ渡り始めているという事実があるからだ。
これまでほとんどの銀行はそれをひた隠しにしてきた。誰もが「現金」を使わなくなると、銀行の結構大きな仕事がなくなってしまうからである。めったに銀行の窓口に行くことはなくなったが、行ってみるとまだ窓口の後ろになにをしているのかよくわからない人がいるし、窓口の手続きはだいたい遅い。コンビニで振り込むのと銀行の窓口で振り込むのは大違いだ。だからといってコンビニ振込みは信用できないということはない。だから振込はコンビニで済ませる人が増えた。
でも、振込は現金でなければならないという縛りがまだある。すると「現金」を銀行から何らかの方法で調達しなければならいわけである。とりあえず銀行はしばらく安泰というわけだ。
しかし、人々はさらなる利便性を求める。そこで銀行は渋々ネットバンキングというのをやっている。セキュリティがどうのと人々を脅かしながら、わけのわからないユーザインタフェースでバンキング機能を提供している。まあ、変なユーザインタフェースで苦労はするけれどもスマホでお金を動かすことが可能になった。
ここでよく考えてほしい。データを自分の操作で動かしているのに(いや、銀行の業務の一部をやってあげているのに)、銀行は堂々と「手数料」というのを取る。まあ、今の銀行システムの中では仕方がないことではあろうが、ちょっと納得行かないという人も出てくるであろう。
そこに、キャッシュレス化のはしりとしてICチップを使った電子マネーが出てきた(まあ、クレジットカードというのも昔からあったけど、あれはある意味借金だ)。まだ未成熟ではあるが、暗号通貨のように、比較的安価なコストで価値移転ができるシステムも出てきた。そして、とうとう個人間で価値移転ができるなんとかペイというのが出始めた。
今は乱立状態で混乱のほうが目立つけれども、ここまでくると、ひととおりお金はデータによる価値の移動に移ったことになる。
まだ「現金」の呪縛がとけていない我々は、受け取った価値を銀行にわたして「現金」に変えようとしてしまうが、別にそんなことをしなくても受け取った価値を別の支払いにあてることはできる。まだいろいろと不便だからあまりやっていないだけのことだ。
もらった価値をそのまま使えるのなら、一度現金に変えるような面倒なことをする必要はなくなってくるのはあたりまえだ。こうなったら、銀行の機能は大きく変わらざるを得ないし、大半がデータ処理なのだから人はどんどん減らしていけるということになるだろう。
さきほどから、キャッシュレスで交換されるものを「価値」と呼んでいる。これには理由がある。
今はキャッシュレスシステム上に存在している「価値」は、管理通貨とPegしている。国としては徴税その他の理由からこれを維持する必要があるし、そもそも人々が管理通貨の方を信用しているわけだから当初はこれは当たり前のこととうけとめられる。それでも通貨=価値というわけにはいかないのだ。
ここからは思考実験である。
過去に、通貨は金(Au)と兌換でなくてはならないという時代があった。比較的最近まで続いていた制度だが、経済の規模が大きくなるに従って物理的なモノである金の量に依存するのは難しくなって、兌換をやめて通貨発行を国の管理のもとに自由にしたのだ。今や金と交換できないから紙幣は信用できないというひとはあまりいない。
この歴史を鑑みるに、いずれキャッシュレスで交換される「価値」と管理通貨との交換性を維持できない時期が来るのではないか?
インターネット上で交換される「価値」が独自の信用を持つようになったら、これは起こりうることだ。
長い準備期間を経て、とうとう「価値」はネットワーク上で自由になる。これは経済を根底から変える「シンギュラリティ」と呼んで差し支えないはずだ。
インターネットを一般の人があたりまえに使うようになって30年近く経過した。その間に流通に起こした変化はなかなかのものだ。金融に起きる変化はもっと短期間で起きるだろう。なぜなら、発展の遅れていた国は最初からこのインフラを使って一気に発展のスピードを上げるからである。先進国と言われている国々がそれに遅れを取るわけにはいかないし、実際に古いシステムのままでは発展に取り残されてしまうだろう。変化すれば痛みを伴うが、変化しなければ致命傷を負う。数年後には基軸通貨がLibraなんてこともあるかもしれない。
というところで筆を置こう。
僕は経済やお金の専門家ではない単なる技術者である。長く技術を通して社会を見てきたが、徐々に社会システムと技術との乖離は大きくなってきていると感じる。それゆえにたわごとと思う方も多かろう。
ただ、シンギュラリティは目の前で起きているということを言っておきたい。
そのわりに随分恐ろしげなところに思考が行きついてしまったものだ。

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