見出し画像

証明する写真

久々にスーツに袖を通す。
最後に着たのはまだ東京に住んでいる時、英検の試験監督のアルバイトだったろうか。
はっきりとした記憶はそこで止まっている。
それくらい久しぶりなものだから、スーツはあれど、それに合うシャツがどうしても見つからなかった。
いつもの白ブラウスを着てみたけれど、地味に胸元が開きすぎてスーツに合わせるにはどうも見苦しい。
スーツのお店に駆け込み、一番手頃なシャツを手に取る。
試着室の鏡に映った姿は、髪型を除けば上京したての入学式と大して変わりなくて思わず少し苦笑いがこぼれた。

ジャケットを羽織るにはまだ早いけれど、長袖シャツを七分に捲っても丁度良い。
ラジオからはまたフジファブリックの『若者のすべて』が流れていた。

証明写真を撮ってもらおうと、いつも使う写真屋さんへ。
さほど広くない店内の端に設けられた、さらにこぢんまりとした一角が撮影スペースだった。
シャツの襟を正し、くせの強い前髪をなんとか良い感じにまとめ、カメラの前に座る。
へぇ、カメラはこの機種なんだ。初めて見る型だな、あとで調べよう。レンズは○mmなんだ。自力で揃えるといくらかかるんだろう、などとついつい機材をチェックしてしまう。
「それでは試しに一枚撮ります」
その声を皮切りに撮影が始まった。

至近距離で光るフラッシュで一瞬意識が飛ぶような感覚に陥る。
レンズを覗いているつもりだけれど、反射的に目を閉じてしまったのではないかと毎回不安になってしまう。

仕上がりがこちらです、とモニターに映った顔、顔、顔。
右肩がやや上がっている。
左の口角だけがわざとらしく上がっている。
少し痩せたつもりだったけれど、意外とそんなことないな。やっぱり痩せなきゃな。

証明写真は言葉の通り私を証明してくれる。
それは社会に出る為の証明だけでなく、きれいに盛れるだとかアプリでの編集も何もない、今の自分という現実をこれでもかと突きつけてくる。
運転免許証の写真なんか、その最たる例だ。
鏡が主観ならば、証明写真は客観だと思った。
そう考えると、自然と笑顔を生み出す雰囲気を作れるカメラマンはなんてすごいんだろうと、撮られる身になって改めて痛感した。
短時間の撮影なのに、微笑みの作り方がわからなくなっていった。

見るからにぎこちないのはスーツのせいか、前のめりになりそうな気合いのせいか、というかもはやそれは気負いではないのか。
自分のおかしなところを意識すればするほど、写真も何故だかおかしくなっていく。
左の口角の力加減がわからなくなって、最後にはふるふる震えていた。
結局、無添加無着色、これが今の私です、という写真になった。
及第点はギリギリ貰える、はず。

お会計が終わった帰り際、「就活ですか?頑張ってください」と店員さんが優しく声をかけてくれた。
気恥ずかしくなって、目を伏せながら「ありがとうございます」と返した。
優しく微笑んだつもりだけれど、恐らくそれもぎこちなかっただろう。

相手方の第一印象がこの証明写真になるのか、と想像するとほんの少しむず痒くなった。
しかし、これが今のベストを尽くした結果なのだから仕方ない。
ならば、それを挽回するにはと気合いを入れ直して私はペンを握ったのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?