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手を振るだけがさよならじゃなくても


わたしの中に、夏の季語が見当たらない。


そんなことを窓の無い部屋の中で、黙黙と仕事しながら思う。

どこもかしこも“平成最後の夏”と謳うけれど、その響きとは正反対なほど、今年のわたしの夏は例年に比べて味気ない。一応お祭りには行ってみたし、手持ちだけど花火も見た。確かに今年の夏の暑さは異常だけど、それくらいしか夏を感じる要素がない。


毎年どうだったっけ、と考えを巡らせてみれば答えはすぐに見つかった。

8月最後の日曜日なのに、わたしは東京にいないからだ。



いつからだろうか。

毎年8月の最後の日曜日は東京にいて、年に一度の再会を楽しんでいた。

場所は音楽フェス。出演者はみんな10代。

日比谷だったのが、いつしか新木場に移った。

特段待ち合わせの約束はしていないけど、会場に行けば自然に会える不思議な関係。

そこで会う人達は皆住んでいるところも、年齢も違う。ほとんどは学生。本名は知らない。強いて言うならSNSで繋がっているくらい。

けれど、音楽があればそれだけですぐに盛り上がれたし、仲良くなれた。


「久しぶり!」と声掛け合って、近況報告して、ご飯食べながらだらだらして、

お目当てのアーティストの番が来たら「ちょっと言ってくる」って観に行ったり、

友達と観て「すごいなぁ………」って立ち尽くしたり、好きな人達のMCで力を貰って、「明日から学校嫌だなぁ」とか「バイト行きたくない」とか言い合いつつ「でも頑張るか」と夜道を歩きながら心に決めるのが毎年のことだった。


いつしか、会場で合わせる顔は少なくなり、自分は出演者やお客さんの年齢層よりも年上になって、ステージを観る視線も以前と同じ目線ではなくなった。

共感よりも、見守るような眼差し。

そりゃあそうだ、自分も会っていた人達ももう学生ではない、既に社会に出て働いているのだから。



去年だったろうか。

迸る熱量で溢れかえる空間に、無数にできた賑やかな輪の中に、わたしが居る隙間はもう無いのだなと感じた。

それは悲観的な意味でもない、逆に穏やかな心持ちだった。

久々に訪れた母校で一生懸命に授業を受けたり部活に励む姿を見て、ノスタルジーを感じるような。

過去と同じテンションで入り込めば、輪を乱してしまうかもしれない。過去に居た人が入り込む余地も権利も無い。

その輪は他でもない、今そこに居る人達のためだけのものなのだ。



ここ数年、近いうちにそんな日が来るのかもしれないと思っていた。

多分、行こうと思えばどんな手段を考えてもいけるのかもしれない。

だけど、“行かない”という手段を選んだ。

仕事があるから。休めないから。やらなきゃいけないことがあるから。

そしてそれはれっきとした果たさなければならない責任だから。

その責任を難なく果たせるようになった時、「大変だけど楽しいよ」と笑って話してくれた大好きな大人達に胸を張って会える気がする。そう信じている。



あの夏に会ったみんなはどこに行ったのか、何をやっているのか、今はもうわからない。

ライブが終わって人もまばらになった日比谷公園で、同級生のバンドが格好良かったと嬉しそうに話す友達も、イベントブースでアコギを借りて、いつもの友達とandymoriの『1984』を弾き語って歌ってるのを微笑んで見てくれた彼女も、今はどうしているのかわからない。

けれど、確かにあの夏の中にいた。それだけはこれからもずっと変わらない事実。

元気にしてくれれば、それでいいのだけど。


そういえば、毎年別れる時「また来年!」なんて言わなかった。

来年それぞれがまた会えるなんて保証もない。約束もしてないし、しなかったとも言える。もしかすると、心のどこかでは薄々わかっていたのかもしれない。

それでも「じゃあね」と言い合った。それだけで十分だった。



ライブが終わると、会場が明転するとともに必ず流れていたのはフジファブリックの『若者のすべて』。

今年はおろか、次はいつあの場所で聴けるのかわからない。

だけど、聴く度にこれまでの夏を思い出すんだろうと思う。

ひとつ深呼吸をして、次の季節に向けて歩き出すことにした。








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