Strike back!

 僕は考えることが好きで、小学生くらいの頃は科学系の話が好きでした。宇宙の話とかテクノロジーの話とか、今思えば荒唐無稽と思われるような未来予想図もたくさんありましたが、どれも子どもの頃の僕の好奇心を大いに刺激していたことには間違いありません。

 中学生から高校生くらいになると、さまざまな社会問題や現行の社会制度に対する疑問が湧いてきました。あまりに非効率で非合理なこの社会の仕組みに、ある種の憤りを感じるとともに、なぜこれらの課題が一向に解決する兆しを見せないのか、疑問に思っていました。子どもながらにも解決策を考えてみたり、問題の本質は何かを考察してみたり、友人と議論してみたりと、稚拙ではありましたが、そうした社会の課題に関心があったのは間違いありません。

 しかし大学生くらいになると、一気にドライになったというか、社会に対する期待の喪失と、自身の無力感からくる諦観が心を支配していきました。その結果、自分にすら期待をしなくなり、人生における非常に重要な時間を、無為に浪費することになってしまいました。

 では何故このように成り果ててしまったのか。僕はこれまでにも何度も似たようなことをこのnoteに書いてきましたが、その理由はやはり、自分の人生を自分で選択してこなかったからだと思っています。自分で選択してこなかった人生は、自分で責任を取るという意識が薄弱です。この社会システムに乗っかってただ生きてだけなわけですから当然ですね。そのように生きてきた人間が大きな失敗に見舞われてしまうと、自分の選択に責任を負う認識が薄いので、うまくリカバリーができません。結果的には自身を喪失し、絶望し、無気力になります。

 かつては社会が敷いたレールに乗っていれば、大抵の人は幸せになれました。しかし、社会が変遷する過渡期に生まれた人間は、そのような古い価値観で育てられて、現在の新しい価値観で駆動している社会にぶち込まれてしまい、その狭間で苦しめられてきました。

 本来なら持っていたはずの好奇心や学ぶ意欲というものを削ぐような教育を施されて、画一的な人材として育てられてきたのに、いざ社会に放り出されるタイミングになると、多様で優秀な人材を求められる。あまりに理不尽で馬鹿げた話ですし、憤りすら感じます。

 ただ、憤って何もしないということでは意味がありません。自分の人生はどんな状況であれ自分の選択で決まるものです。かつての自分と違うところは、人生の主導権を自身の手に取り戻した点にあります。

 僕は今一度、かつて社会に対して疑問を抱いていた中学生の頃の感覚に戻るべきだと思っています。そして好奇心が溢れていた小学生時代を思い出すべきです。僕が人生で抱いてきた不満や憤りを源泉にして、社会を変えていくエネルギーにしていく。そのタイミングがまさしく今なのだと考えています。

 僕が起業という選択肢に行き着いたのは、ある意味で必然的なようにも思います。起業を考える年齢としてはきっと遅めではありますが、そういう「常識」っぽい考え方も、正直いってクソどうでもいいです。社会的な制度として作り上げた数字上の物差しに、僕たちは囚われすぎています。マジでうるせぇって感じです。

 人間は本来、もっと自由に生きていいはずです。人生を諦めるにはまだ早い。社会は自分たちの手で変えていくものです。頑張りましょう。

 それではまた!

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