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運動ができない私の、体育の授業での生き延び方

私は運動ができない。
デキる人間の謙遜などではなく、本当にできないのだ。どれくらいできないかと言うと、サッカーでは5m程の距離のシュートも決まらないし、ボール投げは小学生の頃から7mという大恥な記録を12年間キープし続け、もちろん水泳だって目も当てられない。ハードルはなぎ倒し、走り幅跳びでは捻挫、バスケでは突き指、8の字飛びは永遠に入れない、持久走では1周数え間違えて無駄に走った挙句に最下位、球技では敵チームにパスを回して大迷惑をかけるなどなど、何らかの罪で捕まってもおかしくないような珍記録を連発しているのだ。そして団体で運動ができる人達は皆聡明な頭脳をお持ちなのか、明らかに出来なさそうな人間を見極めるのが上手いのか、99%意図的に私にパスを回さないようにするのである。残りの1パーセントは向こうのミスで私が運悪くキャッチしてしまったものである。そしてウカウカしてる間にそのパスをまんまと敵チームに渡してしまい、責め立てるわけでも、慰める訳でもないあの女子特有の、何か言いたげな、曖昧で悶々とした淀んだ空気が体育館を覆い尽くすのだ。

このような経験を積んでおきながら「体育が大好きです」なんて口が裂けても言えないし、今後言う予定もない。だから私は声を大にして言う。体育はやりたいヤツらでやってくれ。


私は辛うじて美術が得意だったが、「私絵がヘタクソなんだよね(笑)」と言いながら本当にどうしようもない絵を描いている人間を見ると、「芸術的なセンスはともかくとして、君は授業が嫌にならないの?」と問い詰めたくなる。そもそも美術は、見た人間の感性で価値が決まるため、私が「コイツの絵は本当にどうしようもないな」と思ったらそれはどうしようもない絵だし、その辺のオッサンが「この絵は素晴らしい!」と言えばそれは素晴らしい絵なのである。自論になるが、芸術は上手いかヘタかというより、好きか嫌いか、なのだと思う。だから、10人中8人に「ヘタクソ」「嫌い」と言われる絵も、残りの2人には「上手い」「好き」と言われているわけだから、存在が許されるのである。それに、10人中10人にヘタクソ認定されたとしても、日本人は1億3千万人いる訳だからその中の1人くらいは好きと言ってくれる人はいるだろうし、ともかく、どんな芸術だって存在の価値はあるのだ。
だけど、授業としてやるのとは話が違うと思う。『先生』や『みんな』から『比較』され、『評価』をいただくとなると、少なからず美術が嫌いになってしまう子もいるのではないか。たぶん、「やりたくてこんなことやってるんじゃねーんだよ」言いたくなるような子も居たと思う。美術の評価はそれくらい繊細で、見た人の感性で決まる部分が多いため好き勝手作っても大概のことは許される、そういう部分が私には合っていて大好きだった。

しかし体育はどうか。「私スポーツ苦手なんだよね(笑)」とか言いながら本当にお粗末なプレーをしている人間を見て、「素晴らしい!」とか言い出すその辺のオッサンが居るのなら、私は「何故私が大恥をかいたあの時にそばにいてくれなかったんだ」と詰問することであろう。これも持論だが、体育は『得点』と『技術』、あとは少しのスポーツマンシップとやらで価値が決まると思っている。だからプレーも腰抜け、点数は入らないなんて大馬鹿者はまず上手い下手の評価の対象にすら入らないのである。そもそもの土俵にすら入れていない人間が、授業で強要されて好きになれるかという話だ。『点数』が入らなければ『ヘタクソ』呼ばわりされるストレートかつシビアな世界で、しかも集団の中にも個人差があるクラスで、私が上手く立ち回るのはかなり高いハードルだった。

普通のハードルもまともに跳べないような私がどうしてそびえ立つ高いハードルを越えられたかというと、『最初からマジで運動できませんアピールをし続ける』という術を身につけたのだ。
私はよく周囲の人から軽率に「なんかバスケとかできそう(笑)」などと無責任な想像をかき立てられるのだが、それを払拭するべく、4段階にわたって否定する。

①4月の自己紹介の時点で「苦手なことは運動」とアピールする
②授業が始まる時に「体育できないんだよね(笑)」と、とにかく言いふらす
③試合開始前に「本当にできないから!マジで!使い物にならないから居ないものだと思って!」とへりくだる
④授業終了後に「ね?本当にできなかったでしょ?」と事実を改めて認識させる

これらのプロセスを踏んでいくことで、「この子は可哀想だからなるべく何もしないであげよう」と同情を買わせることができるのだ。そしてこの段階を踏んだ後必ず「大丈夫だよ~~!!気にしないで~~!!」とお褒めの言葉もいただけるというのだからまさに一石二鳥なのである。しかしこの作戦の最大の欠点は『プライドを全て捨てる』というところにある。なので「何が何でも下に見られたくない!!」と思っている自我のしっかりした方には全くオススメできない。
私はこれを『負け犬作戦』と名づけており、運動のほかにも料理とか勉強とか裁縫とかいろいろできないため、そういう話題になったときはこの作戦を応用している。

苦手なことを急に得意にすることや、体育をこの地球から概念ごと消し去るということはほとんど不可能だが、出来る側の人間との上手なコミュニケーション次第で案外どうにかなるものなのである。私はこのことに気付くのに十数年かかった。できないことをできるようにするというより、できなくても許されそうな生き方で対応していけば、授業前後に憂鬱になることはない。傷つかず、穏便に生きていくためには、時にはプライドを捨てて自分のできないところも少しだけ知っておいてもらうということも大切な技術である。

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